
盛り上がりを見せるWGPで息を吹き返した大排気量2スト車
欧州向けの’79年型スズキGT750(水冷3気筒。なお2サイクル空冷3気筒のカワサキ・マッハシリーズは、’77年型KH500が最終モデル)を最後に、量産車市場から姿を消していた2サイクルビッグマルチ。
しかし、’80年代中盤にRG400/500Γ、NS400R、RZV500Rとして突如復権したという事実は、当時としては驚きに値することだった。
世界各国の排出ガス規制が厳しくなっていく中、2サイクルビッグマルチの時代は二度と訪れない、というのが当時のライダーの一般的な認識だったのだ。
RZV500RとRG400/500ΓとNS400Rがデビューする直前の’80年代前半と言えば、ケニー・ロバーツやフレディ・スペンサーを筆頭とするアメリカンライダーの活躍によって、世界グランプリが史上空前と言えるほどの盛り上がりを見せていた時代である。

YAMAHA●ハングオフのライディングスタイルを確立したケニー・ロバーツ。写真のマールボロカラーのヤマハOW-70を駆り、’83年を戦ったが、惜しくもフレディ・スペンサーに破れ2位となった。なお、この年でGPを引退

HONDA●’79年ホンダはGPに復帰するが一勝もできず。’82年より2サイクルのNSに転換。そのときにファクトリーライダーとして迎えられたのが、フレディ・スペンサーだ

SUZUKI●’82年からスズキへワークス入りしたフランコ・ウンチーニ。この年よりRGΓはボアストロークが54X54㎜から56X50㎜へと変更され、さらなる高回転高出力が可能となった。翌’83年は、転倒によってシーズン後半に戦列を去る
そこで活躍するレーサーのレプリカを欲する声が高まってくるのは当然の成り行きで、その声にこたえるべく生まれた、’80年型RZ250/350(市販レーサーTZ直系の2サイクルツインを搭載)、’83年型RG250Γ(RG500Γの技術を随所に投入した国産初のアルミフレーム車)は、消えかかっていた2サイクルスポーツモデルの火を再燃させただけではなく、後のレプリカブームを牽引(けんいん)する大ヒットモデルとなった。
となれば、さらにレプリカ度を高めた排気量拡大版が登場してくるのも自然な成り行きで、当時のライダーの多くは、新世代2サイクルビッグマルチはGP500レーサーと歩調を合わせるように、今後も着実に発展していくと思ったはずだが……。
冒頭で述べたとおり、残念ながらそうはならなかった。
結果的に3機種がわずか数年で消え去った原因には、「一般のライダーには扱い切れなかった」、「海外市場での受けがいまひとつだった」、「ビッグバイク=4サイクルの認識を覆せなかった」など諸説があり、真偽のほどは定かではないが、いずれにしても、ヤマハ、スズキ、ホンダの3メーカーにとって、2サイクルビッグマルチは継続するべき必然性を持ったモデルではなかったのだろう。
ただし、そういったメーカーの思惑はともかく、前述したケニーやフレディに加えて、エディ・ローソン、平忠彦、バリー・シーン、ランディ・マモラ、マルコ・ルッキネリ、フランコ・ウンチーニ、片山敬済、水谷勝といった往年の名選手にあこがれたライダーにとって、RZV500R、RG400/500Γ、NS400Rの3機種は、誕生から三十数年を経た現在でも特別な存在であり続けている。

YAMAHA●同時期、全日本ロードレースのヤマハワークスライダーが、平忠彦であることはあまりにも有名だ。YZR500で’83〜’85年には3年連続年間チャンピオンを獲得し、その後はWGPに活動の場を移した(写真は’85年)

HONDA●ヤマハ時代は350㏄で年間タイトルを得たが、4サイクルのNR500では苦戦を強いられていた片山敬済。’83年は、NS500を駆り、年間ランキング5位となる活躍を見せた

SUZUKI●全日本ロードレースで活躍していたのが「東海の暴れん坊」こと水谷 勝である。’81年にスズキ契約ライダーとなった彼は翌年にチャンピオンとなった。市販車Γシリーズにもあるウォルターウルフカラーでの活躍も有名だ
モーターサイクルの世界から2サイクルエンジンが消滅しかかっていることを含めて考えれば、どんな最新機種を持ってきても替えが利かないモデル。
それが’80年代中盤に生まれた2サイクルビッグマルチなのだ。
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