CBは高性能の代名詞だった本田宗一郎の夢と野望
1950年代中盤、世界GP参戦の前段として浅間レースに注力していたホンダは、当時主流の2ストロークに4ストロークで打ち勝つために試行錯誤を繰り返し、創業者の本田宗一郎は意地と執念で高性能4エンジンの開発に取り組んだ。
そして59年にマン島TTへの出場・入賞を果たし、4ストロークのホンダブランドを確立。この年に125ccのC92を浅間レース向けに改良したベンリイCB92スーパースポーツを販売、ここでCBというブランドネームを初めて使う。
60年のCB72(250cc、レースでも活躍)、CB450(当時のホンダ最大排気量)が次々に登場し、CBの名は高性能の証となった。だが、最大の市場だったアメリカで、CB450の販売は伸び悩んだ。イギリスのトライアンフを始めとする欧州製ビッグバイクの方が、総合力で優れているという評価……アメリカでトップになるため、ホンダは総力を結集してかつてないバイクを開発した。
日本最大の二輪レースであった浅間火山レースを目的に開発。59年のクラブマンレース(アマチュア対象)と、併催の浅間火山レース(メーカー対抗レース)の125ccクラスで。"CB"の原点だ
247cc空冷2気筒OHCエンジンの最高出力は24馬力とCR71と同値で、国内外のレースで活躍してCBの名を世界に広めた
外車は大排気量・高性能、そしてゴージャスだった
高性能車として君臨していたイギリス車の代表的存在であるトライアンフボンネビルT120。名前の由来は55年にアメリカのボンネビルソルトフラットにおいて同社が製作したストリームライナーが世界最速となる310km/hを達成(ただし非公認)したところから。T120は最高速度120マイル(193km/h)を表している。改良も続けられ、72年には排気量を744ccに拡大、フロントディスクブレーキを採用したボンネビル750 T140Vへと進化。同社が終えんを迎える83年まで存続し、85年には再生産も行われている
55年に登場したR69(594cc水平対向2気筒)をベースとする高性能版として60年登場。最高速度175km/h。69年までの生産台数は約1万1000台と少ないものの、当時のBMWの象徴であったアールズフォークを装着した最後のモデルとして、現在ではマニア垂涎の1台となっている
余裕をもって大陸をクルージングできる性能や快適性から"キング・オブ・ハイウェイ"の異名を持つハーレーのFL系。エレクトラグライドは65年に、それまでのデュオグライドに代わり登場したモデルで、名前の"エレクトラ"は従来のキックスターターに代わるエレクトリックスターター、つまりセルスターターが装着されたことに由来している。CB750フォアの最高出力67馬力は、この頃のハーレーが66馬力で、それより1馬力上回ればよいという考えに基づき設定されたとも言われている
まだ2ストロークが主流だった国産車
目黒製作所を傘下とした川崎航空機工業(当時)が熟成期にあったメグロK2の497ccエンジンをベースに製造。すでに主流となっていた大排気量に合致させるため、ボアを8mm拡大して624ccとした空冷OHV並列2気筒エンジンを搭載。65年に試作車X650が公開され、翌年650W1として北米で販売開始。その後国内販売も始まったが注文生産だった。エンジンとミッションは別体式で、シフトチェンジは右側。通称"ダブワン"
カタリナGPや浅間火山レースに参戦したファクトリーマシン、YDレーサーの市販モデル。20馬力を発生するエンジンは246cc空冷2ストローク並列2気筒。国産初の5段ミッションを搭載し、タコメーターを内蔵したコンビネーションメーターなども装備。オンでもオフでも、カテゴリーを超越して多くのレースで戦績を残した。当初は「250S」の車名で販売されたが、3000台出荷後に「YDS-1」に変更された。当時の販売価格は18万5000円
4スト大排気量車が世界最速を競っていたとき、スズキが世に送り出した世界初の大排気量2ストローク量産スポーツ車。67年の東京モーターショーで発表され、翌年販売開始。スズキ独自の分離給油方式「CCI(シリンダークランクシャフトインジェクション)」などが効を奏して、47馬力を発生。翌年の2型で新型シリンダー採用とキャブレターの小径化などが行われ、低中速性能を向上。3型ではシート形状変更とリヤキャリヤを装備
(1)ホンダCB750登場前夜
(2)大型4気筒の時代到来
(3)スーパースポーツの先駆け
(4)高出力化への新たな潮流
(5)ビッグネイキッドの幕開け
(6)リッターオーバー時代へ