そして世界の頂点へ
挑戦初年度にして望外の入賞を果たしたホンダの進撃は、留まることを知らなかった。
翌1960(昭和35)年にはマン島だけでなく世界選手権ロードレース全戦で125と250のふたクラスにエントリーを開始。
通算5レース目となる第5戦西ドイツGPで田中健二郎が3位に入賞し初の表彰台をゲット。
続いてT.フィリスとJ.レッドマンという外国人契約ライダーが2戦連続で2位に入ると、近い将来にホンダがGPの覇者となるであろうことを疑う者はいなくなっていた。

●’61年の第2戦西ドイツGP 250㏄クラススタート直前の高橋国光#100とレッドマン#107。高橋はこのレースで日本人初優勝の壮挙を成し遂げる。
そしてグランプリ参戦3年目の1961(昭和36)年、河島は宗一郎への約束を果たした。
世界選手権という大海で、日本の蛙は頂点に登りつめた。
125㏄クラス11戦中8勝、250㏄クラス11戦中10勝。全22レース中、表彰台を独占すること13レース。
まさに圧倒的な内容での2クラス制覇だった。
その中でも、第2戦西ドイツGP250㏄クラスにおける高橋国光の日本人初優勝は、特筆されるべき壮挙だった。
参戦4年目の1962(昭和37)年には50㏄と350㏄にも戦線を拡大。
50㏄ではスズキの快走を許すものの、125、250、350の3クラスでタイトルを獲得し、ホンダは確実にグランプリの覇者として認められる存在に登りつめた。
この年には鈴鹿サーキットを竣工。

●62年に竣工した東洋初の本格的レーシングコース鈴鹿サーキット。これこそホンダのレース活動における最大の事業と言うことも出来るだろう。
日本のロードレースに新たな時代をもたらすだけでなく、我が国のモータースポーツ全体に限りない貢献を果たすこととなる。

●ホンダの参戦と鈴鹿の竣工によって、遂に世界グランプリは’63年に日本での開催を迎えることとなり、満場の観衆は世界の走りに酔いしれた。
1963(昭和38)年には暫定的にファクトリーマシンの開発を休止し、市販ロードレーサーCR110/93/72/77などと混走させる縮小措置をとるが、翌1964(昭和39)年には250㏄ 6気筒のRC165を、’65年には125㏄ 5気筒のRC149を実戦投入するなど、独自に極めた多気筒/超高回転4サイクルエンジンの超絶した路線は途切れることなく続いた。

●50㏄から350㏄まで幅広いマシンを乗りこなしたR.ブライアンズが6気筒を駆る。’65年に50㏄のタイトルを獲得しホンダでは通算11勝を記録。
そしてホンダは、1967(昭和42)年のシーズンをもって9年間に及んだ第1期グランプリ挑戦を終了。
その間、参戦した通算29クラスにおいて18回のメーカータイトルを獲得し、’66年にはソロ5クラス全タイトル獲得という金字塔を打ち立てている。

●’79年、GPに復帰したNR500の総責任者を務めたのが、’60年代に50㏄ 2気筒/125㏄ 5気筒/250㏄ 6気筒などを手掛けた入交昭一郎だった。

●単室に8本のバルブを並べたNR500。ホンダの絶対的4サイクル・ハイメカニズム信奉は、このマシンまでその呪縛から逃れられなかった。
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