運命の巡り合わせ
1959(昭和34)年の暮れ。東京への出張に赴くため東海道本線の列車に揺られていた鈴木自動車社長・鈴木俊三に、ひとりの男が歩み寄って話しかけた。
「いやぁ鈴木さん、おたくのレーサーはえらく良く走るが、T.T.レースに出してみたらどうかね!」
屈託のない笑顔で俊三にいきなり切り出したのは、本田宗一郎だった。
たまたま2社のトップが乗り合わせた東海道本線の車中。
この偶然の巡り合わせがなければ、そして宗一郎のちょっとお節介で人なつこい勧めがなければ、スズキのグランプリ挑戦は実現していなかったのかもしれない。

●1960年のスズキチーム・マン島初出場時、RT60を駆る市野三千雄(16位完走)。この年の125㏄クラスのスタートは6月13日午前10:00だった。
1952(昭和27)年にモーターサイクルの生産を開始したスズキは、翌’53年の第1回富士登山レースを発売間もない2サイクル60㏄のダイヤモンドフリー号で制し、続く第2回大会においても4サイクル90㏄のコレダCO型で優勝。
その評判によって順調な市販車販売を実現することで確実な業界参入を果たしていた。
そして’55年、日本のモーターサイクル界にとって歴史的なマイルストーンとなる第1回浅間高原レースが開催される。
もちろんこれに出場したスズキは、しかし富士登山レースのような好成績をあげることは出来なかった。
出場した125㏄クラスで1位から4位までをヤマハが独占。スズキは5、6、7、17位にとどまり、レースにおいて初めての挫折を味わうことになる。
このレースで9、10、14、20、21位という成績に終わったホンダに比べればまったくましな結果ではあったが、生真面目な社風のスズキが相当なショックを味わったのは言うまでもない。
レース後「スズキは今後のレースに参加しない」旨の声明を発表してしまうのも無理からぬことだった。
これによって第2回の浅間には参戦しなかったスズキ。
しかし社内にはもう一度レースに出たい、雪辱を果たしたいという根強い気持ちが残っていた。
そして’59年の第3回浅間に復帰したスズキは、出場した125㏄クラスで、マン島帰りのホンダに続いて5位に入る。
順位だけを見れば完敗ということになるが、レース中に伊藤光夫が一時トップを走り、その他にも些細なメカトラブルでの脱落がなければホンダの牙城を突き崩すだけの性能を発揮しているのはあきらかだった。

●ピストンバルブ並列2気筒というまだ大人しい構成のエンジンを搭載するRT60。GPを走ったスズキマシンの中で唯一のピストンバルブエンジン車。
ホンダにしてみれば「スズキはやるじゃないか!」の感は強い。
そしてそれが、先の宗一郎の発言につながっていた。
浅間で再びの惨敗…。意気消沈する鈴木俊三の背中を押した宗一郎は、さらにスズキに温かい手を差しのべることになる。
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