ヒストリー

【ラビットvsシルバーピジョン 国産スクーター戦後開発史1】二大航空機企業が選択したスクーター開発(〜1946年)

 

荒廃した街に飛び出した2台のスクーター
両車は生まれながらに対決の宿命にあった

終戦後間もなく富士産業と三菱重工業の両社で、米国製スクーターを範とし、新しい乗り物の製品化を同時に目指したのは偶然だった。
そして始まるのが、ラビットVSシルバーピジョンの序章である。

●’46年秋に撮影されたと思われる1枚。「Pony」名が入る三鷹工場製試作車(後のD-11型)だ。またがって笑顔を見せるのは女優の高峰秀子である。Pony名は商標登録上の問題で間もなくボツになったため、非常に珍しい写真だろう。溝の刻まれたタイヤは当初、中島飛行機時代からの協力工場である藤倉ゴム工業が製造することになっていたが、航空機はスリックタイヤであったため、藤倉では溝付きの加硫型が造れなかった。そこで苦心の末、富士産業内で型を自製したようだ。有名な“銀河の尾輪” は太田製試作2号機まで使用されたとされ、1号機は試乗1発目で転倒・破損している(未舗装路)。ゆえに、溝付きタイヤの確保が急がれたのである

ラビットを生んだ富士産業(太田工場と三鷹工場)、それにシルバーピジョンを生んだ三菱重工業(岩塚工場)は、戦後の活路のひとつとしてスクーター生産の道を選んだ。
両社がスクーターに目を付けたきっかけは車種こそ違え、国内にごく少数持ち込まれた米国製のスクーターを手に入れたことである。

それまでは両社に在籍するだれもが、スクーターという乗り物の存在すら知らなかった。
だが、偶然入手したそれらを分解・研究していくうちに、使いうる機材や資材を最大限活用し、生産することができる製品として最も適切であるとの判断が働いたのだろうか。
その目算は、内燃機関などの製造がGHQにより禁止される中、監視の目をすり抜けつつ極秘で試作が行われたという話にも現れている。
そして、両社の技術陣たちはわずか数ヵ月という期間のうちに、後に一大ブームとなる国産スクーターの原型を造り上げていく。

余談にはなるが、ラビット初期の試作車に爆撃機「銀河」の尾輪を使用していたという話は有名である。
このように、戦時中の資材や工作機械が終戦とともに忽然(こつぜん)と消えたのではなく、GHQ による厳しい規制を受けることはあったとしても、相当な数のものが使用できる状態で残されていた。
また、人材はもとより協力会社との関係や、材料調達ルートといった物品以外のものも残されており、言い換えれば軍需産業に深く関わっていた過去を持つことは、民需転換のスタートラインの時点で、新興の同業他社に比べ圧倒的に有利な立場だったということだ。

ラビットの試作車第一号が完成したのが’46(昭和21)年の6月末。
遅れること約2ヵ月の8月半ばにはシルバーピジョンの試作車も完成している。
ここに至るまで終戦から1年足らずという迅速さは、航空機開発に当たっていた優秀な技術陣が辣腕(らつわん)を振るったためだろう(戦時中は驚異的な仕事量で航空機の開発を行っていた人たちである)。

両社はその試作車を基に不具合箇所を改善しつつ、市販車としての生産への道を模索していくことになるが、大きな壁は占領下にあった当時の世情である。
特に、戦時中航空機工場であった両社に対してのGHQによる規制は厳しく、当初はなかなか生産の許可が下りなかったという。
それでも粘り強い交渉の末、すでに冬の訪れという時期にはなったがようやく生産の許可が下り(月産300台という条件付き)、年内にごく少数ながら生産にこぎ着けることになる。

記録では’46年の生産数は、ラビットが15台(内訳は太田製S-1が10台、三鷹製D-11が5台)で、ふそう(後にシルバーピジョンと改称)C-10が5台となっている。
この合計わずか20台のスクーターたちが、その後花開く国産スクーターモデル群の、まさに礎となったのである。

●写真は後のもの(’50年代中ごろ)だが、当初三菱ではテストコースを持たず、新型車の試乗はもっぱら公道で行われた。シルバーピジョンの開発エンジニアのひとりである片山徳夫氏(本年1月に91歳で亡くなられたとのこと)の自費出版著書、“創造の喜び 一エンジニヤの自叙伝” にこんな記述がある。「研究や実験もテストコースが無い時代なので、試作品を道路で走り回るしか方法が無い。(中略)自動車が少ないので、爽やかな薫風の中を思い切り、颯爽と走るのはまことに気持ちがよい。名古屋近辺は勿論、乗鞍や高山、御嶽、箱根まで遠乗りして、温泉にも泊まれるし、日当までもらえるから楽しい思い出である」。実に大らかな時代だったのだ


 

範としたモデルは両車で異なる

ラビットが範としたのは「ポウエル(パウエル):Powell」という米国製スクーターで、車種はストリームライナー40か40J、または41Jであるとの説がある。
それが中島飛行機時代の協力工場であった東京・目黒の野村工業(本業は映写機器メーカーで、後にモナークのエンジン製造も手がける)に社員が出向いた際、そこに置かれた見慣れぬ乗り物に興味を持ち、借用を申し入れ太田に持ち帰ったようだ。
そのポウエルは戦前に国内に持ち込まれたもので、輸入したのは野村工業の創業者(当時はすでに引退していた)だという。
 

シルバーピジョンはラビットとは違い、参考にしたモデルは「サルズベリー(サルスベリー):Salisbury」社製のモーターグライドという名のスクーターで、これは米国に30年以上滞在し、エンジニアとしてGM社に勤務していた某氏が戦前に持ち帰ったもの。
開発に当たっては、牧田与一郎氏(分社化後に再統合された三菱重工業の社長に’69年就任)が非常に力を入れたとの話が残る。
なお、当時のピジョン開発現場ではこの米国製スクーターを単に「サルスベリ」と呼んだそうだ。
植物の百日紅を指してのことだろうか。

 

富士産業:ラビット S-1(D-11)

生産が決まった当初は太田製が「ラビット」、三鷹製が「ポニー」という名称が付けられたが、ポニーはすでに商標登録がなされていることが判明、両工場製ともにラビットとすることに落ち着いた。
そうして生まれた 太田(呑龍)工場製S-1、三鷹工場製D-11は細部の仕様に違いはあるがほぼ同型。
記録では’46年の生産数計15台のうち7台は試験車両とされ、正式に生産数として届出されたのはわずか8台のようだ。
本格的な生産が始まったのが’47年4月に入ってからで、その年の生産数はS-1が528台、D-11は338台となっている。
同じ富士産業内でも各工場では独立採算性を採っており、完成車組み立てや販売は別個に行われていた。
だが、車両開発自体は共同で、生産に当たっては両工場の特性を生かし、太田が車体関係、三鷹がエンジン関係の生産をし、双方納入し合うことで代金相殺を行っていたと言われる。

↑参考車のポウエルの面影を色濃く残しながら、当初より日本人向けのアレンジが加えられた初代S-1。
ふたり乗りもできる(乗車定員は1名とされるが)荷台の設置や、シート高・ハンドル位置の最適化、押しがけ始動を容易にするためのデコンプ(リフター)レバーの左ハンドル上設置などがそれである。
撮影車はオリジナル度の高い非常に貴重な個体で、黄緑7号色、通称「国防色」に塗られたジュラルミン製ボディ外板も驚くほど奇麗に残っている。

↑S-1のエンジンは車体番号171番までがF11型で、それ以降が灯火用コイルが追加されたF14型と言われる。
撮影車のエンジンはNo.269のF-11型だが、残念ながら車体番号が発見できず(車体後方のNo.83 表記がシリアルナンバーなのか)。
エンジン番号が171より大きい数字なのは、三鷹製D-11に搭載されたF-11と連番だったからと考えられる。
始動は押しがけ方式で、スロットル操作はフロアペダルによる。
変速機はなく、クランクシャフトから遠心クラッチを介し、すぐさま後輪駆動用のドライブスプロケットにつながる。
なお、遠心クラッチのほかワンウェイクラッチも装備され、押しがけ時に作動する。

↑ポウエルにならい採用された、3.50-5サイズの小径タイヤ(現車のタイヤは最近のもの)。
終戦直後であった当時は、タイヤひとつ確保するにも現在では考えられぬ苦労がつきまとった。
前後ともサスペンションはなく、ブレーキは後輪のみ。
簡素極まりない装備であるが、それでも当時は貴重な移動手段だったのだ。’47年12月発売のS-12よりフロントのみサスペンションが装備される。
世は超インフレ下であり、当初9000円だった価格は翌年に入るとすぐ1万2000円を超えた。

S-1主要諸元

●エンジン:強制空冷4サイクル単気筒SV3バルブ ボア・ストローク55.0×57.0㎜ 総排気量135㏄ 圧縮比5.0 キャブレター日本気化器H-19B 点火方式フライホイールマグネトー 始動方式 押しがけ
●性能:最高出力2ps/3000rpm 最大トルク— 最高速度60㎞/h
●変速機:なし 終減速比4.405
●寸法・重量:全長1550 全幅570 全高970 軸距1115 最低地上高100(各㎜) タイヤサイズF3.50-5 R3.50-5 車両重量75kg
●容量:燃料タンク5.6ℓ オイル—
●発売当時価格:9000円(’46年)

 

三菱重工業名古屋機器製作所:ふそう(シルバーピジョン)C-10

戦後の混迷の中、三菱重工名古屋機器製作所に持ち込まれた1台の米国製スクーターを範とし、後にラビットと双璧をなすことになる国産スクーターが誕生した。
当初は「ふそう」と称していたシルバーピジョンC-10は’46年12月より生産開始。
ラビットに対しての優位性はサルズベリー譲りのVベルト&プーリー式自動変速装置を持っている点で、現在のスクーターのものと原理的には変わらない。
始動方法はラビット同様の押しがけ方式で、スロットル操作はペダル式のラビットと異なり、現在の2輪車同様右グリップをひねる方式だった。
生産数は’46年が5台、’47年が414台。その翌’48年途中には改良型C-11が発売されることになり、記録上は総計のためC-10だけの正確な生産台数は分からないが(総計は1830台)、数字だけを見てもスクーターが順調に世の中に受け入れられていったことが分かる。

↑サルズベリーの写真と見比べてみると(不鮮明ではあるが)、フロントまわりの構成などから明らかにそれを参考にしたことが分かる。
ただし文字どおりの「走る椅子」だったサルズベリーとは異なり、C-10には当初より荷台が付けられている。
多少なりとも運搬用途を考えられており、誕生時からすでにオリジナリティーが求められていたことが伺える。
ボディ外板は航空機用資材の余剰品を使ったジュラルミン製だ。

↑エンジンはシンプルな設計のサイドバルブ112㏄で、リヤのタイヤハウス上に載せる形で搭載される。
エンジンのクランク同軸上に、遠心クラッチを介し自動変速機のドライブプーリーが配され、Vベルトを介してタイヤハウスに軸を置くドリブンプーリーに駆動を伝える。ドリブンプーリー軸はタイヤハウスを貫通し、逆サイドに取り付けられるドライブスプロケットにつながる。
そこから最終的に、リヤホイールをチェーンで駆動する形を取っている。
なお、本来は左側のフライホイール外側に強制空冷用のファンが付くが、写真の車両では失われているようだ。始動方式はラビットS-1同様押しがけである。

↑3.50ー5サイズの小径ホイールはラビットS-1と同サイズ。
S-1はわずかな数の試作車のみ銀河の尾輪を使用していたが、同車は生産開始後も100台ほどは百式司令部偵察機(陸軍機)の尾輪を使用していたという。
この“百式司偵”は太平洋戦争開戦時に国産トップの高速を誇った航空機で、同機の設計に関わった技術者はC-10以下シルバーピジョン各車の設計にも携わっている。

C-10主要諸元

●エンジン:強制空冷4サイクル単気筒SV2バルブ ボア・ストローク57.0×44.0㎜ 総排気量112㏄ 圧縮比5.0 キャブレター— 点火方式フライホイールマグネトー 始動方式押しがけ
●性能:最高出力1.5ps/3000rpm 最大トルク— 最高速度50㎞/h
●変速機:Vベルト&プーリー式自動変速機 変速比—
●寸法・重量:全長1550 全幅560 全高1010 軸距938 最低地上高—(各㎜) タイヤサイズF3.50-5 R3.50-5 車両重量73kg
●容量:燃料タンク3ℓ オイル—
●発売当時価格:3万8000円(’47年)

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モーサイ編集部

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