国内外へと隆盛を極める現代日本の2輪、4輪モータースポーツ活動も、その原点を振り返れば敗戦の荒廃覚めやらぬ1950年代の浅間高原から歩み始めたと言ってよい。
人も技術も未成熟で金も物も不足がち……そんな時代でも、モータースポーツ競技に魅せられた多くの男たちは熱い情熱を注ぎ続け、やがて世界一級のサーキットをいくつも誕生させて、今や国内外のトップライダー、ドライバーたちによる白熱の戦いが各地で繰り広げられ、多くのモータースポーツファンをも生み、その輪は世界へ広がり続けている。
戦後の不遇な時代からモータースポーツ競技に人生を懸けて自ら熱闘し、さらに有能な後進たちをも育てあげた日本のレジェンドライダーたちが、相次いで鬼籍に入ってしまった。いつまでも輝きを失うことのない伝説となった英雄たちに、心からの敬意と哀悼の意を表したい。ここではその足跡のほんの一部を振り返ってよう。
写真●スズキ/八重洲出版/松尾孝昭 文●松尾孝昭
伊藤光夫さん
1937(昭和12)年1月1日生まれ 享年82歳
静岡県磐田市出身
1959年浅間火山レースでスズキ社員ライダーとして125㏄RBでデビューするも悪天候のため転倒リタイヤ。1960年のスズキマン島TT初挑戦には現地で練習中に負傷し欠場(そのときの様子は【遙かなるグランプリへ4】ホンダに続け! 偶然の出会いが生んだスズキ・マン島TT挑戦史(後編)にて紹介している)。
その後、1962年イタリアGP50㏄で初優勝。1963年、26歳のときマン島TT50㏄クラスで優勝を遂げメインポールに日の丸をあげた。その後現在までマン島TTで日本人の優勝者は出ていない。
1959年浅間火山レースでスズキチームは満を持して125㏄ツインRBを出場させるが悪天候に阻まれ♯105伊藤は惜しくもリタイア。
1960年のマン島TT初挑戦を前に125㏄RT60のテストに余念がない研究3課(レース部門)の面々(左から伊藤光夫、清水正尚監督、松本聡男)。
1963年マン島TTで50㏄RM63を駆る♯8伊藤光夫は3周182.17㎞を平均126.93㎞/hで力走し見事トップでゴールした。
同レース50㏄トップスリー(左から2位H.アンダーソン、伊藤光夫、3位H.G.アンシャイト)がライバルへ祝福の声をかける。
’63年は伊藤さんにとって人生最良の年だったかもしれない。写真は当時の自宅前で1月に結婚したばかりの計子夫人が出勤を見送るひとコマ。
以降スズキの社員ワークスライダーとして世界GPを転戦、1967年を最後にスズキが撤退すると社内レース部門の研究3課に所属。社内機構改編後マネージャーとしてレース統括部門で要職を歴任し、モトクロスの渡辺 明や安良岡 健、名倉 直などをバックアップ。
1970~1980年代には、海外レースチーム(WGP、耐久レース、モトクロス全般)と社内レース技術部との名折衝役として実力を発揮し多くの勝利に貢献した。
また昨年12月にはMFJが設立した「MFJモーターサイクルスポーツ殿堂」の栄えある第1回殿堂顕彰者にも選出されたばかりだった。
伊藤さんは最近まで元気だったが、検査入院で突然、悪性胸膜中皮腫(癌)が見つかり入院、自宅へ戻り程なく7月3日にご逝去された。亡くなる間際に枕頭で、ご息女のスマホから2ストレーサーの音が流れると目を明け、3度まで聞いて息を引き取ったそうで、奥様の計子さんは「あの人はバイクに乗って逝ってしまいました」と涙を浮かべた。
2010年のマン島TTの現地では「スズキ・マン島出場50周年記念イヤー」と銘打ち伊藤さんも特別ゲストとして招待を受けた。右は60年代のGPライダーで盟友のF.ペリスさん。
安良岡 健さん
1940(昭和15)年3月27日生まれ 享年79歳
東京都足立区出身
10代からバイクを乗り回すのに夢中な少年時代を過ごし、大学進学をせず自動車商の機輪内燃機に入社し整備技術を磨く。
レースデビューは1959年浅間で最後に開催されたクラブマンレースの200㏄クラス。1961年埼玉ジョンソン基地での第4回クラブマンレースでは見事初優勝を飾り大器の片鱗を見せた。その後、腕を見込まれトーハツ、カワサキ、スズキとワークスライダーの道を歩む。
活躍の場は全日本をはじめ北米デイトナ、東南アジアのマカオGP、欧州での世界GPなどに及び成果を残した。
1961年に埼玉のジョンソン基地(現入間基地)での第4回クラブマンレースでトライアンフT110を駆り501㏄以上クラスに出場した安良岡さん(左から3人目)は初優勝を飾った。
安良岡さんは1973年鈴鹿での8時間耐久レースにスズキTR500で阿部孝夫選手と組み見事優勝を飾る。左から2位の根本健/浅見貞男、優勝の阿部孝夫/安良岡 健、3位の莊利光/大橋富夫の各選手。
1974年北米を代表するデイトナ200マイルレースにスズキワークスからTR750(エンジンはGT750ベース)で出場。賞金が巨額だったのも魅力だった。
だがテストとレース中の2度の大事故で足に障害を負い37歳でレースを引退し、2輪業界を見つめながら都内でバイクショップを経営していた。
晩年は大腸癌を患い体調を崩していたが5月31日静かに息を引き取った。不世出の名ライダーであった。
昨年6月東京品川で開催された「城北ライダース60周年祝賀パーティー」に姿を見せたレジェンドの面々。左から莊利光さん、安良岡さん、大月信和さん、鈴木忠男さん。
三井 晃さん
1947(昭和22)年生まれ 享年72歳
戦後レース界での名門東京オトキチクラブの一員として自らレースに活躍。実家が金属材料商だった関係もあり1960年代半ばから、あのPOPヨシムラこと吉村秀雄さんの東京福生市にあった吉村モータースにも出入りし材料を納入しながらヨシムラの面々とも親交を深めた。
1980年代には「ヨシモト」ブランドのレーシングパーツも開発販売。1989年にはJMCA(全国二輪車用品連合会)の設立に関わるなど今に続く二輪車業界に貢献する足跡も残した。晩年は肝臓を痛めての最期となった。
いつも明るく朗らかな性格が多くの人々に愛された希有な人だった。
去る6月11日、三井さんを愛する面々が「三井 晃氏を酒の肴に集う会」と銘打ち都内で偲ぶ会を開催。会場には会費制にもかかわらず、かくも多くの参加者が訪れて楽しく故人の思い出話に花を咲かせた。