我、世界の覇者とならん。
1954年1月1日付のホンダ社報に、社長・本田宗一郎は新年の挨拶を掲載した。
その中にこうある「新春早々、大村君は南米サンパウロのレースに出向くが、英国のマン島のレースにも派遣するつもりだ」。
当時の日本では、その前年に名古屋TTと第1回富士登山レースが開催されたばかり。
舗装路での本格的なレースなどまだ誰も見たことがない時代だ。ダートの浅間が始まるのはその翌年の1955年。ロードレースという概念を持っていた日本人は誰ひとりいない。
すべてのホンダ社員が「マン島のレース」とは何のことなのか理解できていなかった。
その社報の文章はこう結ばれている。
「そのためには君達の若い力に私は大いに期待を寄せている。私も大いに勉強するから、君達も未来へ大きく希望をもって勉強に励んで欲しい 社長 本田宗一郎」。
それから2ヵ月を経た3月15日、宗一郎は写真の文章により正式にマン島への出場を発表する。
それはマン島への出場宣言であり、すべての社員と日本人に向けた檄文であり、また全世界に向けた宣戦布告書でもあった。
登頂への序章
宗一郎はマン島への出場を宣言した1954(昭和29)年の6月、早くも現地へ視察に赴いた。
その年のモーターサイクリスト誌10月号には「勝算あり・1954 T.T.レース視察」という本人の談話が掲載されている。
この中で宗一郎は「必勝の信念」「来年度はホンダも出場する」「NSUには負けない」と心境を述べているが、内心はあまりにも大きな技術差に打ちひしがれ、どこから何に手をつけていいのか分からないほどの落胆を味わっていた。
本物を見てしまった男は、当時の日本で最先端の見識を持った、そして最も大きな苦悩を抱えた孤独な男でもあった。
その頃日本では、富士登山レースの定期的開催が軌道にのり、また浅間でのレース開催が具体的な準備段階に入っていた。
各メーカーの関係者はその対応に奔走し、結果のいかんに一喜一憂する日々を過ごしていた。
実用車をどう改造して土の上を速く走るかという実にドメスティックなテーマが、彼らの日常を占める精一杯の業務だった。
しかし、宗一郎だけが違っていた。
完全な舗装路でシステマチックに行われる世界選手権ロードレースで、先端を行くヨーロッパのライバルに対抗するにはどうすれば良いのか…そのことが、彼のテーマであり続けた。

●1958年に急造された荒川のテストコース…と言っても直線のみのコースではまともな走行試験は望むべくもなく、鈴鹿の竣工が切望された。
後に宗一郎は述懐している。
「富士登山だの浅間だのはどうでも良かった。もちろん負けたくはない。でも私の頭にはマン島しかなかった」。
皆が富士のお山に登ろうとしている時、彼だけがエベレスト登頂を夢見ていた。

●1959 年6月3日、いよいよマン島初挑戦を迎えたホンダチーム。左から鈴木(淳三)、鈴木(義一)、河島監督、谷口、田中、ハント、関口整備主任。
しかし大きな風呂敷は拡げたものの、成果はなかなかともなわなかった。
宣言後の富士登山と浅間で開催されたレース18クラスの内、ホンダが制したのはわずかに5クラス。
マン島を目指す125㏄クラスでは一度も勝つことができず、国内での覇権すら定まらない状態で時間だけが流れていた。
そんな時、1958(昭和33)年の浅間火山レースが各メーカーからの要望によって中止と決定され、国内レースにぽっかりと1年の「空白」が出来た。
これはホンダにとってまたとない好機となった。
まだまだマン島マシンの開発は充分ではなかったが、このタイミングを逃せばまた浅間に忙殺されマン島マシンの開発が滞ることは明らかだ。
浅間の1年順延という事態が、ホンダに最終決断をさせることとなった。
あの出場宣言から5年、ついに1959(昭和34)年のマン島に出場することが正式に決定され、内外に告知される。

●スタート直前の谷口。ツナギの胸には、渡欧直前に事故で落命した僚友秋山邦彦の遺影が納められていた。谷口は秋山の代役としての参戦だった。

●2年目のマン島を走る谷口の貴重なカラー写真。アルミ叩き出しのカウルやメッキを施したマフラーなど、初期ホンダRCの特徴が良く分かる。
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