ヒストリー

高橋国光さん追悼「二輪でレースキャリアをスタート、世界GP日本人初優勝をもたらしたモータースポーツ史の伝説」

高橋国光 BSA

1958年嵐の浅間で衝撃のデビュー!! 弱冠18歳の天才ライダー・高橋国光少年

日本の二輪・四輪モータースポーツ界で数多くの偉業を成し遂げ続け、その優しい笑顔とともに誰からも愛された「クニさん」こと高橋国光さんが2022年3月16日亡くなった。82歳の生涯だった。

そのクニさんと当社とは浅からぬ縁がある。それは当社・八重洲出版創業社長の酒井文人(故人)との、半世紀以上もさかのぼる浅間高原での出会いから始まった。戦後日本の本格的なモータースポーツレースの起点は、1950年代に勃興した全国の二輪製造会社(当時200社近くあった)団体が技術向上のために行った浅間火山レース(1955年、1957年・二輪レース)だ。
当然、参加資格はメーカー専属のプロライダーのみで、そのころ増え続けていた一般ライダーたちへの門戸は閉ざされたまま。勢い一般ライダーたちによる公道での暴走などが社会問題化する。

それを憂慮した当社創業社長の酒井文人(故人)は、若者に走る場を提供するために「日本でも欧米のように、クラブや団体が主催するレースをやろう」と日本初のアマチュアレース組織MCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)を結成した。
そして記念すべき初開催が1958年(昭和33年)8月の第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース(会場は浅間高原自動車テストコース)で、奇しくもそのレースに鮮烈なデビューを果たしたのが弱冠18歳の高橋国光少年だったのだ。

1940年(昭和15年)、東京・武蔵小金井で自転車販売店「高橋輪業」が生業の父伊助の三男として生まれた高橋国光は、中学卒業と同時に父の方針で高円寺にあった岩崎モータースで2年間の丁稚奉公に出る。
そして立派に奉公を終えた褒美に父が与えたのが英国製の高価なBSA650ツインのゴールデン・フラッシュだった。

毎日のように喜々としてBSAで走り回る国光は、近郊のバイク愛好家たちが主宰する「ハイスピリッツ・モーターサイクルクラブ」にもメンバー入りし、ドラッグレースなどの草レースに参加しながらレース人生への扉を開いていく。
その国光の非凡な才能を見抜いた人こそ、当時のBSAやBMWの輸入商バルコム貿易のヘルマン・リンナーだった。

そしてバルコムは国光に、初のアマチュアレースが開催される浅間で、最新型スポーツ車BSAの350cc単気筒「ゴールドスター」を貸与。
期待に応えた国光は500セニア、350ジュニア混走レースで折からの台風接近による泥濘下(浅間のコースは未舗装のサーキットだった)に快走し総合3位、350ccクラスではブッチギリの優勝でデビューレースを飾る。若武者の活躍に嵐の中を詰めかけた観衆は度肝を抜かれ、主催者側の酒井文人を喜ばせた。

第1回クラブマンレース出場を前にした記念写真。バルコム貿易から貸与された英国製OHV単気筒の最新鋭スポーツ車BSA350ゴールドスターと共に浅間高原自動車テストコースのパドックに立つ18歳の若き高橋国光さん。
セニア500から3分遅れでスタートしたジュニア350クラスの#28高橋は、先行するセニア勢を猛然と追い上げて次々と抜き去り、総合3位に入賞して非凡な才能の片鱗を見せた。タイムだけを見れば1位より早い数字である。
1958年8月24日、日本初のアマチュアライダーによるモータースポーツ競技(二輪・四輪含め)開会式にこぎつけ、全国のクラブマンたち(45チーム104名)の寄せ書きが入った連盟旗を受け取る酒井文人初代理事長(右)。
当日の第3レースとなったセニア(351cc〜)とジュニア(350cc)が時間差でスタートする。緊張のスタート前、一周9.351kmのコースはおりからの台風襲来で泥ねいと化した。スタートラインの上にある垂れ幕には「モーターサイクリスト」のロゴも見える。

世界GPへ出場、1961年、ホンダRC162で日本人初優勝

その後、国光は翌1959年の浅間では、メインイベントの500cc耐久レースで当時のスターライダーだった伊藤史朗とゴールまで激しいデッドヒートを繰り広げ惜しくも2秒差で2位の活躍。
この活躍を見ていた当時、世界グランプリ制覇のために挑戦を開始したばかりの本田技研に請われて社員レーシングライダーとして入社、トントン拍子に世界の檜舞台へ階段を駆け上がっていった。1961年の西ドイツGP250ccクラスで、ホンダRC162を駆り日本人初優勝という快挙を成し遂げたことは余りにも有名である。

二輪の世界GPで日本人チャンピオン誕生確実かと期待された翌1962年6月のマン島TTだったが、125ccホンダRC145を駆る国光は生涯最大最悪の転倒事故を起こし生命まで危ぶまれる重症を負ってしまった。

1959年、浅間での最後のレースとなる第2回クラブマンレース(メーカー主体の第3回浅間火山レースと併催)でも、バルコム貿易のBSA500ゴールドスター#652を駆り、当時のビッグスター伊藤史朗との激闘を演じた高橋。
1960年のワークスチームHSC(ホンダスピードクラブ)員となった高橋(19歳・左から2人目)と、同じく新人の北野 元(18歳・右端)。同年世界GP用250㏄4気筒ホンダRC161を前に、八重洲出版の招聘で来日したジェフ・デューク(中央・当時の世界GP王者)と記念撮影。

その後、重症からどうにか回復した国光が、活躍の場を移したのは、拡大の一途をたどる時代の日本モーターリゼーションでの主役、揺籃期の四輪レース界だった。
折しも鈴鹿や富士スピードウェイで開催される四輪の日本グランプリではトヨタ、ニッサン、プリンス自動車などの大メーカーが激突する。ニッサンのエース格として迎えられた高橋国光の活躍は日本モータースポーツ界の金字塔として輝いている。またその後の国内・海外での四輪レース界での数多くの活躍をあげれば枚挙にいとまがない。

生涯をレースの場で燃やしたクニさんが長いレース人生を歩み始めたのは二輪の第1回クラブマンレースであり、その歩みは日本モータースポーツ史そのものでもあった。
四輪レース界の重鎮となったクニさんが「ボクのレース人生で本当の心に残る強烈な思い出は、若い日の二輪世界GPでの日々だった……」と漏らしたのを思い出す。

素晴らしいモータースポーツの真髄を見せてくれたクニさんありがとうございました。心よりご冥福をお祈りします。

1961年の世界GP第2戦西ドイツで250㏄のスタート直前に笑顔を見せる#100高橋国光と#107ジム・レッドマン(共に250ccDOHC4気筒ホンダRC162)。上り調子の高橋はついにこのレースで悲願の日の丸をメインポールに上げた。

レポート●松尾孝昭(元モーターサイクリスト編集長・八重洲出版資料室担当・)
写真●八重洲出版 編集●上野茂岐

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3月19日(土)~4月3日(日)まで、Hondaウエルカムプラザ青山では、ホンダのモータースポーツ活動に数々の栄冠をもたらした高橋国光さんへの感謝と追悼の意を込めて、高橋さんが駆った以下のマシンとともに追悼展示が行われています。

 

■1961年に高橋氏がWGPで日本人初優勝を遂げたRC162
■1995年にル・マン耐久レースでクラス優勝を果たしたNSX GT2
■2018年にSUPER GTシリーズGT500クラスを制覇したNSX-GT

 

https://www.honda.co.jp/welcome-plaza/

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