ライムグリーン、誕生
「’70年代に入って新たなレース活動をスタートするにあたり、斬新なカラーリングを考えて欲しい」
レース部門から要望を受けた商品企画部のデザイン担当者は、単車事業部のある川崎重工明石工場の中を、相応しい「色」を求めて歩き回っていた。
6万坪を雄に越える広大な敷地の中に、様々な事業部の巨大施設が点在する明石工場は、全体がひとつの都市のような威容を誇っている。
しかしそこにあるのは、無機質な金属を剥き出しにしたジェットエンジンや巨大なガスタービンであり、躍動感に溢れカラフルであるべきレーシングマシンとはおよそ程遠い重厚長大な製造物ばかりだ。
担当者は、新しいレーシングカラーなどこの工場とはまったく無縁なのではないかと思い始めていた。
その時、あるカラーサンプルが彼の目にとまった。
鉄道車両の塗色が揃ったその場所で、ひときわ目立つその色。近づくとそこには「国鉄設定色・黄緑6号」という号数呼称があった。
「これは、使えるのではないか…」。
早速レース部門にその色を示すと、反応は悪くない。
これまでサーキットでほとんど目にしたことがない色であり、斬新という点では充分に合格点がつけられる。
「ちょっと変わっているけれど、まぁ我々らしくて良いんじゃないか」
こうしてその色は、新生’70年代のカワサキレーシングカラーとなった。
ただ、呼び名に少々困った。その色の国鉄での通称は「ウグイス」。これを思い切り気取って「ライムグリーン」と呼ぶことが決められた。

●隅谷との激闘、鈴鹿のコースレコード更新など、和田の全日本ロードにおける活躍は、ライムグリーンを強く国内ファンに印象付けることとなった。
辛くもタイトルを獲得
1965(昭和40)年の最終戦日本グランプリ125㏄クラスに、日本のメーカーとして最後発の出場を果たしたカワサキではあったが、2気筒のKA-I、そしてその後にデビューしたV型4気筒のKA-IIともに、所期の目標を果たせないまま時間が過ぎていた。

●ヤマハやスズキと同等の、125㏄クラスを超越したハイメカニズムを持ちながら、ついに大きな活躍を見せることが出来なかった悲運のKA-II。
しかし’69年に「2気筒6速ミッションまで」の新レギュレーションが施行されたことで、他のワークスが一斉にグランプリ活動から撤退。
一方、ミッションの段数を減らすことによってKA-Iが引き続きGPを走れることとなり、その結果、マシン貸与のかたちで個人出場を続けたデイブ・シモンズがタイトルを獲得。
これによってカワサキはまさにぎりぎりのタイミングで’60年代グランプリシーンに一矢を報いることとなった。
このKA-I、KA-IIの2台のワークスマシンと、A1R、A7RSなどの市販レーサーを最後に、長年慣れ親しまれたメタリックレッド…いわゆる赤タンク時代にピリオドが打たれることになる。

●フレーム剛性などに問題を抱えまともな結果を残すことが出来なかった250のA1Rに対し、350のA7系はそれなりの戦績を残すことが出来た。
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