KRの快走と、惑い
そして迎えた’70年代。
一気に大排気量クラスへの進出をはかったカワサキは、500㏄クラスのH1-Rと、750㏄クラスのH2-RのちにKR750を開発。
単発のデイトナ200マイル、マン島T.T.、フォーミュラ750、世界GP500㏄クラス、全日本FL(フォーミュラリブレ)など、さまざまなレースに参戦。
新たに採用したライムグリーンのレーシングカラーは、瞬く間にカワサキのイメージを定着させる効果を強力に発揮した。
ただ、一気にハイパワー化したエンジンと、まだ発展途上の車体まわり、そしてエンジンパワーに性能が追いつかない当時のタイヤなどの問題があり、全体にリタイアや転倒も多く、また選手権よりは単発イベントへの出場も多かったため、レース活動としてはなかなかまとまりを持たせることは出来なかった。
そんな中、デイトナでもレースが行われ、もちろん世界選手権もある250㏄クラスへの参戦を決定。
タンデムツインエンジンを採用したKR250がデビューすることになる。
デビューシーズンとなった’75年のデイトナではトラブル、続いてエントリーを開始した世界GPでもまだ思うような結果を残すことは出来なかった。
’76年も根本的な問題解決には至らず、悶々とした日々が続くが、2気筒を同時爆発にしたところ様々な問題が解消。
それが’77年のミック・グラントによるGP初優勝へとつながっていく。
KRの快進撃が始まるのは’78年からだった。
K.バリントン、G.ハンスフォード、A.マンクというゴールデントリオが、KR250と350のふたクラスでまさに飛ぶ鳥を落とす勢いのレースを展開。
’78年から’82年まで5年間の250と350、通算10回のチャンピオンシップ中、8回を獲得するという快挙を成し遂げた。
しかし、この好成績が、カワサキを惑わせてしまったのも確かだ。
’80年に、KR500で最高峰クラスに参戦を開始。
随所に革新的なメカニズムを盛り込みながら、実戦的な戦闘力を身につけられないまま3シーズンを消化し、ランキングは12位、8位、9位という中途半端なものしか残すことが出来なかった。
’83年にはいっさいのグランプリ活動から撤退することになり、’80年代におけるライムグリーンの活躍は耐久などのレースに限られている。
結局、カワサキの世界選手権ロードレースにおける通算タイトル獲得数は、’69年の125が1回、そしてKR250/350で8回を加算し、計9回となっている。
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