スズキ、ホンダテストコースを走る
俊三と宗一郎が東海道本線の車中で意を通じてから数日。
暮れも押し迫った12月27日、スズキ本社会議室で翌’60年のマン島出場が正式に決定された。
トップが迷いのない意思を示せば、物事はあっという間に前進する。
正月休みを返上してマン島マシンの設計に没頭したレース部門は、早々にプロトタイプを完成させテストに入った。
しかし当時のスズキには充分なテスト走行を行なう施設がない。
国道1号線における非合法の試走に無理があるのは誰もが承知している。
ここで渡りに舟となったのがホンダからの申し出だった。
前年に、国内メーカーとして初のテストコースを荒川に完成させていたホンダは、スズキにその使用を勧めたのだ。
仮にも浅間でトップを争ったライバルである。半信半疑で関東に赴いたスズキを待っていたのは、ホンダの至れり尽くせりの接遇だった。
タイム計測機器を設置し、侵入者のないように見張りとなったのもホンダの社員だったし、現場の弁当から宿泊の手配までまるで自社チームのテストとかわらぬ手際の良さで彼らはスズキを受け入れた。
さらには、マン島経験者である河島監督や飯田マネージャーが宿を訪れ、マシンや機材の送り方から書類の作成方法、現地でのレースに関するノウハウまですべてを伝授した。
普通ならここで何か裏があるのでは…と疑いたくなるのも当然だが、すべては宗一郎の天真爛漫な発言に起因していた。
「私たちはマン島の1年先輩だ。スズキさんが困らぬようにしてあげるのが当然だろう」。
これを実直に受け止める河島や飯田たちの人柄もあった。
こうした有形無形の恩義を受けたスズキは、’60年3月23日に荒川を手本としたテストコースを会社近くの米津浜に竣工。
それに先だって2月には丸山研究部長をマン島に派遣し、現地視察と宿舎の手配、さらにコース全周を走行しながらフィルムに収めるという綿密な準備を進めていた。
この時、丸山が予約したのが、ダグラス湾を見下ろす美しい丘の中腹に建つファンレイホテルだ。
そして、スズキがこのホテルを選んだことが、またしても偶然の出会いとその後の大きな出来事を引き起こす発端になっているとは、その時誰も気付いてはいなかった。
後編はこちら(順次公開)
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