第二次世界大戦より前のイギリス車には、二輪車の原形と呼びたくなるような車体構成とともに、戦後「世界の二輪地図」を書き換えてしまった国産メーカー群とは異なる完成車造りの方法論がうかがえる。
2020年11月29日に愛知県津島市で開催されたイベント「第3回ビンテージバイク ラン in TSUSHIMA」は、大正時代に同地で開催された二輪レース「天王川オートレース」を記念したものだが、会場にはその故事来歴を物語るように明治時代から日本の地を踏んだモーターサイクルたちも集まっていた。
自転車にエンジン、今見るとクールな1910年代のイギリス車(23枚)
その「ビンテージバイク ラン in TSUSHIMA」参加車両を例に、1910年代のイギリス製二輪車の特徴を見ていきたい。
自転車にエンジンを付けたような──
それが1910年代のモーターサイクルの多くに共通する印象である。
最初のエンジン付き二輪車は1885年にドイツで発表されたが、一方、同じ1885年にイギリスではそれまでにない車体構成の自転車が発売され、そこから5年と待たず、現在の私たちから見ても違和感のないダイヤモンドフレームへと進化して現在の自転車に至っている。
ドイツのモーターサイクルの元祖よりイギリスの自転車の方が断然合理的なフレーム構成である事は一目瞭然だ。
そしてこのダイヤモンドフレームや4ストロークエンジンのみならず、1910年代までの四半世紀の間に、空気入りタイヤ、ヘッドパイプ同軸の舵機構、チェーンとギアを介した後輪駆動など現在まで引き継がれている構造/機構/部品が登場している。
つまり、1910年代の「自転車にエンジンを付けた様な姿」は、既にそこまでの進化を経て標準化された車体構成なのだ。換言すればこの時代に、現在のモーターサイクルの「原理」が出そろった、と言っても差し支えないだろう。
その110年後の現在に至るまで引き継がれることになるこの期間の各部の急激な進化、言わば「奇跡の四半世紀」は、なぜ起こり得たのか? それは言うまでもなくダイヤモンドフレームの発明が基となっている。
要は、それまでの二輪車は「普通の人」が乗るにはあまりに危険すぎたのだ。前後同サイズの車輪、乗車時のヒップポイントに対する手と足の「操作性の良い」位置関係、キャスター角などを反映した「セーフティ型自転車」の登場は、性別を超えて一気に需要を拡大し、それまでの鍛冶仕事による物造りからマスプロダクションへの移行を招いた。
そしてそれはイギリスのモータサイクルメーカーにおける「完成車造りの方法」を導き出した。ここで忘れてはならないのは、「進化」は自転車とモーターサイクル双方にほぼ同時に起こったということである。
イギリスの古いモーターサイクルの基本はフレーム屋が「完成車メーカー」である。フレーム以外はエンジンやトランスミッションを含むほぼ全てのパーツが「専門メーカー」の「商品」で構成されている場合がほとんど。これは現在の自転車、「パナのフレームにシマノの変速機でパナの自転車」と全く同じ構図である。
各パーツの専門メーカーは自転車とモーターサイクルの需要拡大を背景に「モチはモチ屋」とばかりに性能=商品力を向上させ、それは同時に規格の統合による標準化にも拍車をかけたに違いない。
このような完成車造りの仕組みが、先述した短期間での急激な進化を実現できた理由の一つとなっていると見れば、まさしく「需要と工業製品の進化」は比例しているのだ。
黎明期のイギリス製モーターサイクルの特徴──「らしさ」を楽しむ
では「第3回ビンテージバイク ラン in TSUSHIMA」に集まった戦前イギリス車で、そのあたりのパーツに注目してみたい。
ホーン(のバッジ)
ホーンは、多くが「パフッ」と鳴るラッパ式。エンジンに負けない音量を秘めた正に金管楽器である。
メーカーは「ルーカス」、そのステートメントは「キングオブザロード」。警笛を鳴らす、その時あなたは路上で王となるという訳だ。何ともイギリスらしいウイットというか皮肉というか、オツなこと言ってくれやがる。
この金言がエンボスされたバッジは、戦後まで自転車ベルにも使用されていた。「英国人みたいな気の長い連中と勝負するんだから……」とはマン島TTに臨む本田宗一郎の言葉。御意。
カーバイドランプ
日本では手塚治虫の影響で「アセチレンランプ」の名の方がおなじみかもしれないが要は同じである。カーバイド(炭化カルシウム)の塊に水を滴下して発生するアセチレンガスを燃焼させて光を得る。
ハンドル手前にすえ付けられた黒いバレルがガス発生装置。自動車用の電球も1910年頃に登場したが、当時は照度、点灯時間、安定性などの実用面でもカーバイドランプに分があった時代である。
写真の物は「パウエル&ハンマー」製。灯火器を中心としたメーカーである。このカーバイドランプを始めとした営業品目がカブる競合相手が前出のルーカスであったが、パウエル&ハンマーは1929年にそのルーカスに買収されてしまう。
ただしその後もしばらくは傘下ブランドとして存続したようである。
セルロイド被覆
写真の1912年製ラッジ ウィットワース「マルチ」では、人の手足が触れる各部を丁寧にセルロイドで被覆した部品が多く採用されている。
同車に取り付けられているものに関しては、おそらくラッジ所在地であるコベントリー近郊にあった「ブルーメル」製と見た。
1920年代のブルーメルカタログを見ると、自転車や自動車を含めた幅広い部品にセルロイド被覆を施した製品を数多くラインアップしている。
クロームメッキが登場する1920年以前はニッケルメッキが代表的だったが、その難点は経年変化で表面が曇ること。そこでブルーメル社曰く「ポリッシュセルロイドの気のきいた外観、リアルオールウェザーフィニッシュ」「セルロイドは清潔で錆びず、すり減らない、そのパーツは決して見苦しくはならない」──どうよとばかりに誇っている。
そして、この「グリップワンピースハンドル」のエレガンスを見よ。
「バイク乗り」たる者、この100有余年を経たシブい「照り」を拝まずして愛車のプラスチックをバカにしてはいかんのだとエリを正した次第。
サドル
「ブルックス」は、馬具を扱っていた創業者が、自転車用木製サドルのあまりのスパルタンさに懲りたことが革サドル製造の始まり。
当時からパニアケースやライディングウェアなどの皮革製アクセサリーなどを手掛け、経営母体を移しながらも現在に至る。写真のサドルは品番B170。
リヤの二重巻きバネは内側が圧縮方向、外側が伸び方向で緩衝する「複合バネ」と名付けられた機構である。当時の鋼材では衝撃を吸収できるバネ容量が稼げなかった故の苦肉の策?……否、どうもそれだけではなさそう。少し長くなるが当時の技術説明を紹介しよう。
「ペダリング不要のマシンに乗るには、モーターサイクル用シートが必須です。〜路面からの衝撃を吸収するために、内側と外側のコイルスプリングが一体となって作用することで限りない弾力性を感じさせてくれます。単純なスプリングの場合は、避けられない反発と減衰時間の長さが宿命ですが、ブルックスの複合スプリングでは、内側と外側のスプリングがそれぞれの速度でライダーの荷重を受止めます。そしてこれらの減衰速度は全く異なるので、お互いのバウンドを相殺します。ブルックス特許の複合スプリングは、サドルスプリングの中で唯一、ライダーの揺れを最小限に抑えつつ無限の弾力性を確保するものなのです。〜なおご注文の際はライダーの体重申告をお勧めします。それは数種類の強度で造られていますので。」
同時代、自転車とともに自転車用サドルも生産していたラッジ ウィットワースに採用されているということは、ライバル会社のラッジをしてその効果を認めていたということに他ならない。の、乗りたくなっちゃったじゃん……。
フェンダーステー端末
当時のイギリスモーターサイクルが、フレーム=完成車メーカーとパーツメーカーとの相互補完によって発達したことを裏付ける、小さな、しかし確かな状況証拠の一例として、フェンダーとそのステーの構造を挙げたい。
写真のようにフェンダー本体とステーを別体とすることで、一般的な「左右ステーを一体成型し、しかる後にフェンダーにリベット留め」という形式と比べ、同一製品の汎用性は格段に拡大する。つまりフェンダーメーカー側は最小限の投資で最大限の供給を可能とし、顧客である完成車メーカー側もその分安く調達できる、という図式が成立する訳だ。
余談をかまして恐縮だが、この形式は一部の自転車趣味人界隈では「松葉ステー」と総称され、古き良きイギリス自転車を象徴する様式の一つとなっている。
前出のブルーメルは自転車用フェンダーも数多く揃えたメーカーであり、戦後ではイタリア自転車「チネリ」にまで同じ構造が見られる。当のブルーメル は1980年代中期にドイツの同業者SKSに買収されたが、SKSの製品においてもこの基本スタイルは現在まで不変である
……とまあひと通り見てみると、改めて「イギリス車らしさ」という漠然とした印象の実質が、互換性を考慮し完成車メーカーをまたいで採用された各パーツの表情によること大であると気づく。
上記各メーカーと、「第3回ビンテージバイク ラン in TSUSHIMA」に集まった戦前のイギリス製モーターサイクルの創業、参入の年と所在地をあたってみると以下のようになる。
■完成車メーカー
- トライアンフ(TRIUMOH CYCLE CO., Ltd.,):1902年 コベントリー
- アビンドン キングディック(ABINGDON WORKS CO. LIMITED.):1905年 バーミンガム
- ラッジ ウィットワース(RUDGE-WHITWORTH, LTD.):1911年 コベントリー
■パーツメーカー
- ブルックス(J.B.BROOKS & Co. Ltd):1882年前後 バーミンガム
- パウエル&ハンマー(POWELL & HANMER LTD):1885年 バーミンガム
- ブルーメル(BLUEMEL BROS. LTD):1890年 コベントリー近郊
- ルーカス(JOSEPH LUCAS Ltd):1897年 バーミンガム
これらのメーカーが先述の「奇跡の四半世紀」に創業ないしは二輪業界に参入していることがわかる。
ちなみにバーミンガムとコベントリー間は直線距離で30kmほど。両都市とロンドンは1838年には鉄道で繋がれ、メーカー相互の非常に緊密な連携と物流網が整備されていたことは想像に難くない。
豊富に産出される石炭と鉄鉱石を背景として鉄鋼業が飛躍的に発展した工業地帯であり、1800年代中盤からブラックカントリー(黒煙地方)と呼ばれてきたエリアである。この時代の目覚ましい進化が遺し、現代に引き継がれている数々の「二輪車の原理」が、採鉱から製鋼、完成車組み立てまで粉塵と煤煙に晒されながらの、まさに命を削った物造りによる恩恵であることを心に留めておきたい。
1912年製の英国車、ラッジ ウィットワース「マルチ」考察1
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