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1980年代のスクーターを振り返る第2回目。前回も紹介したように、80年代のスクーターブームは70年代生まれのホンダ・ロードパル、そしてヤマハ・パッソルが牽引役。1980年発売のタクトでレッグシールドが付くスクーターが人気になると、各社そろって50ccスクーターを開発・発売した。
ただ、HY戦争と呼ばれた販売合戦が巻き起こると、スズキは早々に戦線を離脱。1983年に終焉を迎えた頃には、スクーターの販売価格はガタガタに安くなっていた。
だから、当時高校生だったり、初めて免許をとってスクーターに乗り始めた若者には、1万円から5万円ほどで買えた中古スクーターがドンピシャだった。男性だけでなく女性も大いにスクーターライフを楽しみ、日本全国に浸透していった。
ところが、あまりに急激な普及が副作用を引き起こす。スクーターが絡む交通事故が猛烈な勢いで増えたのだ。そのため、1986年には着用義務がなかった原付にも、ヘルメット着用が義務付けられた。それまで普段着姿でチャチャッと乗れたスクーターなのに、ヘルメットを買って絶えず被らなければならない。この反動は大きかった。まず乗らなくなったのが女性。髪型を気にする女性にとり、ヘルメットは無粋以外の何者でもない。ただ、男性にとっては大同小異で、この頃からお椀型の半キャップが大いに売れたものだった。
今回はそんな1980年代中盤に発売されたスクーターを振り返ってみたい。ヘルメット着用義務により、安心してスピードを出せるようになった時代。発売される新型車も、どんどんスポーツモデルが中心になっていったのである。
1985年:ヤマハ・チャンプから始まるスポーツ路線にホンダはDJ・1やイブパックスSで対抗
1984年にチャンプを発売して一気にスポーツ路線へ向かったヤマハ。
続くホンダはタクトをモデルチェンジさせるも、チャンプの勢いには敵わない。追い討ちをかけるようにヤマハは、1985年1月早々にジョグをスポーティな装いにしたブラックジョグを発売する。

チャンプが11万9000円、ブラックジョグが11万5000円と偏差の価格も絶妙だった。
さらにヤマハはシンプルで軽量、9万9800円という低価格のトライを3月に発売する。HY戦争が終わったとはとても思えない新車ラッシュだった。

この状況下でホンダは「若々しいデザインで軽快な走りの50ccスポーティスクーター」と銘打ったDJ・1を3月に新発売する。
対抗馬のジョグは9万9000円と10万円を切る価格でありながら、49kgのボディと4.5psのエンジンで強烈に速かった。だからDJ・1は52kgと若干重いボディながら5.2psの高出力エンジンを採用。価格は10万9000円だった。

これでジョグ対DJ・1という対立図式ができあがった。
それなのにヤマハはさらなる新機軸を打ち立てる。今でこそ当たり前だが、50ccスクーター初のメットイン機構を採用するボクスンを1985年4月に新発売するのだ。
これはパンチが効いていた。翌年のヘルメット着用義務化とまさにドンピシャなタイミングと言えた。

ヤマハの先行に甘んじないホンダは、1985年6月に女性向け軽量モデルであるイブのスタイルを一新するとともに、5psエンジンとVマチックを採用してスポーティ路線を追求したイブパックスSを発売する。同時にチューン度の低い4.1psエンジンのイブパックスも新設定された。
両者の価格はイブパックスが8万2000円、Sが9万5000円だった。

上記で紹介した車両以外にも、1985年は早々からスポーツモデルや低価格モデルの新車ラッシュとなった。
ヤマハは5月にチャンプのエンジンを0.3psアップさせ、6月にアクティブを6psにさせる。ホンダも4月にタクトを5.4psへパワーアップさせ、5月にはファッションデザイナーのデザインによるクレージュ・タクトも発売。
ところがここへ、スズキが割って入る。7月に49kgと軽量ボディに高出力6.5psエンジンを搭載する驚愕のスポーツスクーター、カーナを新発売するのだ。シュートやラブスリーで対抗してきたスズキだが、ホンダ・ヤマハがスポーツ路線を歩み出すと黙ってはいられなかったのだ。

カーナの発売でスポーツスクーターの勝負は決まったかに思えたが、さらにスズキは12月にハイパースクーターというキャッチコピーでハイを新発売する。明石家さんまをイメージキャラクターに起用して、黄色やピンクの2トーンカラーが斬新だった。6.5psエンジンは強力で、スクーターレースの常勝マシンになる。

この1985年はその後、ホンダ・ヤマハとも目立った動きを見せずにいた。もしかすると、翌年である1986年7月から始まる原付のヘルメット着用義務化が関係していたのかもしれない。
1986年:ホンダのスポーツグレード追加をきっかけにさらなる激戦が
1986年はまずホンダが動く。なんと3月11日、リードとDJ・1の両方に完全なるスポーツグレードを追加するのだ。
リードには6.4psまでパワーアップしたエンジンを搭載する「SS」と「R」が追加された。SSはハンドルカバー形状を変更、Rではアンダーカバーやフォークカバー、テールフィンなどを備え、ハイグリップタイヤやエア封入式ダンパーまで与えられた。この結果、リードSSが17万5000円、Rが18万5000円になった。


同時に発売されたDJ・1のスポーツモデルがDJ・1Rだ。5.5psエンジンやハイグリップタイヤを備え、サイレンサー付きチャンバーやエアロアンダーカバー、新デザインメーターが与えられた。

これに対してヤマハはまずソフト路線から攻める。4月に女性向けだったキュートの後継車としてミントカスタムを発売する。フロントトランクやセルスターターを標準装備して9万6000円だったが、6月にはキックのみとした標準モデルも追加された。価格は8万3000円だった。

さらにヤマハはチャンプをさらにパワーアップして5.8psとした新型を7月に発売する。同時にガス封入式リヤショック、バーエンドグリップ、専用メーターを装備するチャンプスペシャルを新設定した。

このタイミングで原付にもヘルメット着用が義務化された。すると各社、一斉に沈黙したかのように新型車の発売を控えることになる。やはり売れ行きがダウンすることは避けられないと見たのだろう。
事実、女性ユーザーの原付離れが急激に進む。目立った動きとしては、スズキがハイにウォルターウルフやコナウインズなどのカラーリングを施した特別仕様車を、12月にヤマハがミントスペシャルを発売したくらいのものだった。
1987年:カラーリング変更の特別仕様車が相次いで登場
明けて1987年、1月にヤマハは6.3psにパワーアップしたチャンプRSを発売させる。同月にホンダはタクトフルマークをモデルチェンジして、フルフェイスが入るメットインスペースを確保する。エンジンは5.8psで価格は13万9000円だった。

続く2月にはジョグがモデルチェンジして全車6psにパワーアップする。タイヤが3.00-10へ、ホイールベースも15mm伸びた。スポーティは2トーンカラー採用で11万5000円だった。

同じ2月にはホンダもDJ・1Rをパワーアップさせる。6ポートシリンダーと樹脂リードバルブを採用して6.0psを達成した。前後エア封入式ダンパー、同軽量ホイールを採用したほかヒップアップしたスポーツシートなども装備された。

さらに3月、ホンダは軽量モデルのイブパックスSに特別仕様車「イブパックスS JPSスペシャル」を設定する。1970年代にF1で大活躍したJPSロータスのロゴのようで、抜群にカッコ良かった。

前年のスズキ・ハイに続き、各社カラーリングによる特別仕様車が多くなってくる。
少し遅れて7月、ヤマハは1月に追加したばかりのチャンプRSに前年の鈴鹿8時間耐久レースに出場した平忠彦/クリスチャン・サロン組のYZF750カラーと同じ仕様を追加する。それが7月に発売されたチャンプRS TECH21だ。
当時、平忠彦はテレビCMに起用されたほどの人気ライダーだった。

ここでスズキは、またしてもスポーツモデルを発売する。11月にスズキ初のメットイン機構を採用するアドレスを発売するのだ。
今でこそアドレスと言えば原付二種モデルが通勤快速の定番となっているが、この時の50ccモデルはイメージキャラクターが本木雅弘だったこともあり、ソフトな路線を狙ったものだったといえた。価格は13万9000円。

上記以外にも、スズキがANDFやエアロフェンダーを採用したレーシーなHi-Rを販売するなど、1980年代前半の勢いそのままの新車攻勢が続いたのであった。
1988年に入ってもこの勢いは止まらず、各社から様々なモデルが販売されることとなるが、その勢いは徐々に鈍っていく。
次回は1980年代後半の50ccスクーターヒストリーを紹介していこう。
(text:増田 満/まとめ:モーサイWEB編集部)