ブランドカラーはいつ頃から生まれたのか?
それの大半は1970年代にアメリカのレースで生まれた。
さらにそれは80年代の世界GPではスポンサーカラーに変わり、多くの市販車も華やかなグラフィックで駆け抜けた。
あのころのブームを象徴する出来事だ。
report●関谷守正
※本記事はMotorcyclist2018年1月号に掲載されていたものを再編集しています。
ブランドカラーのスタートを切ったのはカワサキだった
その始まりは1969年。
4メーカーの中で北米進出の遅かったカワサキの現地法人KMCは、ブランドイメージの認知促進のため、大胆な色をレーサーに施した。
赤タンクだった車体色をライムグリーンへ、KMCが独断で塗り変えたのである。

●カワサキのライムグリーン採用は新天地アメリカの市場開拓のための一勝負だった。現地では不吉な色をあえて使って目立つと言う"逆張り”に出たのだ。結果は大成功。ハイパワーの2サイクル大排気量マシンの豪快な走りで"パワーのカワサキ”を決定づけた

2018 Z900RS CAFE
ライムグリーンは欧米で〝悪魔の色〟とも認識されており、不吉なイメージがあったことを逆手に取ってレースで目立つというアイデアだった。
ちなみに、大きなKマーク=フライングKや、現在のカワサキにおける二輪ブランドのスローガンである〝Let’s good times roll〟も、このころにKMCが考案したもの。
70年にH1R、72年にH2Rという大排気量モンスターマシンが登場すると、レースでのライムグリーン軍団は目立ちに目立ち、〝グリーンモンスター〟と呼ばれたのである。
このカラーリングによるブランド訴求は、スズキとヤマハも相次いで導入。
いずれも世界GPから撤退し(ヤマハはすぐに復帰)、好景気だった北米に注力を開始したのだ。
スズキは71年に、それまでGPで使っていた青/銀を青/白へ。

●スズキも北米市場を狙ったブランディングで、青/白のカラーリングを採用(ただしオフロードはイエローで統一)。当初は青ベースに白ストライプだったが、徐々に白の面積を拡大。ヨーロッパのGPに本格復帰した74年のRG500では、ほぼ半々の面積になった。現在ではそれがスカイブルー一色になっている

2017 GSX250R
ヤマハは72年に白/赤を黄/黒へと、新たなカラーリングに塗り替えた。

●俗にストロボラインと呼ばれるヤマハのカラーリングは、正式にはスピードブロックと言う(当初はただの黒ストライプという説もある)。ファクトリー活動再開から市販レーサーTZ発売の流れの中で、72年に採用された。このグラフィック、実はライムグリーンの発案者と同じ人物のアイデアによるもの

2016 XSR900 Limited ver.
これで一気にカラフルになった北米のレースシーンだったが、70年のデイトナ優勝を期にレースから撤退したホンダ(GPは68年から休止)は例外で、おなじみのトリコロールカラーが登場するのはヨーロッパの耐久レースに参戦した76年からと、4メーカー中で最も遅かった。
70年代中盤からGPに復活したスズキ、カワサキは北米の色遣いをそのままヨーロッパに持ち込んで、ブランドカラーとして定着させたのである。

●ホンダのレース活動再開は、当時カワサキが強かった耐久レースへの参戦をフランスホンダが強く要望したことによる。このため9年ぶりのファクトリーマシンRCB1000は、青/白/赤のフランスの三色旗(フレンチトリコロール)をモチーフにペイント。もともとホンダのレーサーは赤タンクだったこともあり、耐久レースを3連覇したマシンの赤を主体にした色遣いがそのまま定着した

2017 CBR1000RR SP
30年に渡るGPスポンサー事情
そして、そのGPでカラーリングの新たな流れが誕生した。
それがタバコ企業によるスポンサーカラーだ。
元祖は、75年のソノートヤマハ(現ヤマハフランス)が、フランスのタバコブランドであるゴロワーズと契約して、車体を白/水色/青のゴロワーズカラーに塗ったことだろう。

●ゴロワーズYZRのサロン、ロスマンズNSRのドゥーハン、そしてマルボロYZRのマッケンジー。90年代を迎えるころまでは広告規制も緩やかでタバコスポンサーにも元気があった
以後、83年にスズキがHB(ドイツ)、ヤマハがマルボロ(米国)と契約したところから、一気に世界中のタバコマネーがGPに流れ込んだ。
四輪F1でのスポンサーが飽和状態だったこともあり、大きく隆盛しようとしていた二輪マーケットを新たなターゲットに定めたのだ。

●85年のホンダによるGP500/250のダブルエントリーを期に登場したロスマンズ。その契約金は当時のHRCのレース活動の支柱になるほどのもので、GPだけではなく、耐久レースやパリダカでもロスマンズカラーが走った(契約は93年まで続いた)。スペンサー、ガードナーの活躍で、市販車のロスマンズカラーも大人気。ちなみに00年~06年の鈴鹿8耐ではJTのキャビン、そしてセブンスターがHRCのスポンサーだったことは記憶に新しい

2006ホンダ
CBR1000RR-SPW
同時にほかの産業、例えば酒類・飲料や娯楽、あるいは油脂化学などの方面からもスポンサーが現れた。
90年代に健康問題を理由に欧米のレースからタバコスポンサーが閉め出されて以降は、それらの企業がメジャーなスポンサーとなっていった。
しかし、それでもなお、125クラスにまでスポンサーが付き、異様にカラフルだった80年代のレースシーンは、その〝色〟とともに今でも鮮明な記憶として残っているはずだ。
タバコカラー全盛から現在へ
タバコカラーはまさにレーサーレプリカ時代を象徴するもの。
この時期にロードレース活動を再開したカワサキには、このラインアップがなかった。
最初はスズキRG250ΓのHB(ハーベー)カラーで、GSX-Rにも使われた。
GSX-R750Rではヨシムラカラーもあった(後にスズキのMotoGP活動を支えたリズラは、タバコの巻き紙の会社)。
ホンダはロスマンズカラーをNS400Rで採用し、その後NS250Rでは白ロスマンズも登場。
ロスマンズカラーはNSR250R、VFR400Rなどでも大人気。
ヤマハはマルボロとゴロワーズが定番だったが、ラッキーストライクやキリンMetsカラーも懸賞で当たるモデルとして人気を集めた。
タバコ企業撤退のあとは、ホンダのレプソル(石油)やヤマハのモビスター(携帯電話)カラーがおなじみだ。