まえがきにかえて(開発エンジニアの記録より)
NSR250Rがデビューした翌年の1987年、ついにホンダは市販2ストロークロードスポーツカテゴリーで初めてヤマハを抜いた。NSRの販売台数がTZRを超えたのだ。4ストロークのホンダが、2ストロークのヤマハを、2ストロークで抜いたのだ。また、筑波のSPレースでも、デビューシーズンでありながら、TZRを抑えてチャンピオンになった。
そして、HRCでもGP500でワイン・ガードナーが、GP250でアントン・マンクが、全日本250では清水雅弘が“NSR”でチャンピオンになっている。つまり、この87年はレースと市販車の全ての“NSR”がNo.1を獲得してしまったのだ。81年に打ち出した「ホンダ2ストロークNo.1」という企業戦略は、6年目にしてやっと達成できたのである。
この完成されたNSR250Rが、なぜ毎年フルモデルチェンジをすることになったのか? HRCファクトリーのNSR250は85年のデビュー以来、数々の輝かしい戦歴を残してきたが、マシンはどんどん変化していた。新しい技術がどんどん生まれ、実戦で試され、戦闘力アップが施されたのである。それは毎年というものではなく、毎レースのように進化し続けたのだ。
では、量産車のNSR250Rはどうすればいいのか? それは「HRCの進化に置いていかれないよう、HRCから出てくる技術を毎年惜しみなく取り入れる」となる。そうしないと、気がついたときには本物と違うものになってしまう。そしてもうひとつ、NSR250Rを進化させなければならなかった理由がある。それはスポーツプロダクションレース(SPレース)の存在だった。SPレースは入門者のレースで、限りなくノーマルに近い市販車をベースにしたマシンで行われる。つまり、バイクを作る側から言うと、量産車のポテンシャルを競うレースということになるのだ。NSR250Rの使命は、販売台数でライバルに勝つだけではなく、SPレースでライバルをやっつけるということだった。「HRCの技術を毎年惜しみなく取り入れること」がなければ、SPレースで勝ち続けることはできなかったのだ。これがデビュー以来8年間、NSR250Rが毎年モデルチェンジをすることになった理由なのだ。
CONTENTS
まえがきにかえて
革命前夜
マシンギャラリー
MC16&MC18モデル概要
インタビュー
86-88モデル LPL 池ノ谷保男さん
86-88モデル エンジンPL 山本 均さん
MC21&MC28モデル概要
インタビュー
86-88モデル 車体PL、89-94モデルLPL 青木柾憲さん
89-91モデル エンジンPL 後藤田祐輔さん
92-94モデル エンジンPL 中道勝弘さん
家族から見たNSR250Rへのあくなき執念
NSR250R技術総覧
全モデル諸元表
レシプロ系
RCバルブ
吸気系
PGM
クラッチ
フレーム
サスペンション
NSR250Rの軌跡
モーターサイクリスト誌・インプレッション記事再録
NSR250Rに関わるトリビア
NSR250Rと私と
元朝霞研究所 エンジニア 小澤源男さん
元Jhaレーシング メカニック 高久正照さん
元SSフクシマ メカニック 池戸一徳さん
NSR250RがSPレースを圧倒した時代
NSR250R全カラーバリエーションアルバム
NSR250Rのオールラインアップポスターが付録
NSR250Rのラインアップを網羅したA1判のポスターが付録。
NSR250Rフリークならばぜひ入手したいアイテムだ。