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■上写真:第1回鈴鹿8耐を快走して優勝のヨシムラ・スズキGS1000+W.クーリー(#2/右)。左の#18はカワサキKR350の和田将宏/清原明彦組
「8耐」以前から開催されていた鈴鹿サーキットでの耐久レース

日本における耐久レースの歴史は意外に古く、1964年には「鈴鹿18時間」が国内初の本格的な耐久として開催されている。翌65年になるとこのレースは24時間耐久となり、以後、12時間、10時間と変化を遂げつつ、着実に支持を集めていくこととなった。オイルショックの影響によって74〜76年は中止されたものの、77年に鈴鹿6時間として復活した耐久は依然として高い人気を誇っており(逆に2サイクルのTZばかりとなった全日本選手権の人気は、徐々に下降線をたどっていた)、鈴鹿サーキットとMFJ事務局は、将来の発展を見据えて1978年に国際格式の耐久レースを行うことを決定する。
開催時間は、当初は耐久の本場であるヨーロッパに倣って24時間にする予定だったが、周囲への騒音や治安上の問題から警察からの許可が下りなかったため、12、10、8、6時間、1000kmを検討したうえで、日本独自の8時間という数字が導き出されることとなった。これが鈴鹿8時間耐久レースである。
こうした経緯を経て始まった「鈴鹿8耐」は、瞬く間にビッグイベントに成長を遂げ、最盛期の85~90年には毎年15万人以上の観客を動員。因縁とも言えるホンダとヨシムラの戦い(両社の戦いは64年の鈴鹿18時間時代からあり、このレースでPOPヨシムラが仕上げたCB77は、ホンダ社内チームを抑えて優勝)、無名の外国人ライダーが見せる驚異の走り、ケニー・ロバーツを筆頭とするGPライダーの参戦、国内4大ファクトリーの激突など、鈴鹿8耐には見どころが満載だったのだから、それは当然のことなのだろう。
そんな鈴鹿8耐は今年で46回目を迎える。歴史を振り返って最も面白かった時代はいつかと問われると答えは人それぞれだろうが、この記事でスポットを当てるのは、空冷モンスターマシンたちが暴れ回った8耐黎明期の78〜83年だ。
お世辞にも洗練されているとは言えないこの時代のマシンからは、近年のスーパーバイクレーサーでは徐々に希薄になってしまった、造り手の試行錯誤と情熱が如実に感じられる。まずは手探りで始まった鈴鹿8耐の第1回、1978年のシーンをプレイバックしてみよう。


不沈艦隊ホンダRCBがまさかの自滅。鈴鹿8耐初代王者はスーパーバイクスタイルを貫いたヨシムラだった【1978】
1978年に開催された第1回鈴鹿8耐は、基本的には何でもアリのレースだった。レギュレーションでは、改造範囲が制限されたシルエットクラス:250~1200cc、市販レーサー/プロトタイプクラス:240~1000ccのふたつが設定されていたものの、排気量がこの範囲内に入ってさえいれば、参戦できないバイクはなかったし、ライダーはノービスライセンスでも参加可能だった(主催者側は、いきなりTT-F1規定と言ったら参加者が集まらない、と考えていたようだ)。
そしてこのレースで主役を務めるはずだったのが、76/77年に圧倒的な強さでヨーロッパ耐久選手権を制し、「不沈艦隊」と呼ばれたホンダRCBである。この年の鈴鹿はノンタイトルレースだったのにわざわざRCBが参戦したのは、もちろん、母国に錦を飾るため。当時の欧州耐久選手権では4~5台のRCBが走るのが普通だったのに、2台態勢としたのは、それで十分に凱旋帰国が果たせると判断したからだろうか。
だが、予選開始と同時に主役の座を奪ったのは、スーパーバイクレーサーを持ち込んだヨシムラ(ウエス・クーリー/マイク・ボールドウィン)とモリワキ(3台態勢で参戦。エースはグレーム・クロスビー/トニー・ハットン)、そして杉本五十洋とデビッド・エムデが走らせたF750レース用のTZ750だった。
中でもクーリーやボールドウィン、クロスビーらの走りは圧巻で、アップハンドルのモンスターをねじ伏せて豪快に走る姿は、当時の日本人にとって衝撃的と言えるものだった。とはいえ、このレースはあくまでも耐久である。決勝では予選4/7位につけたRCBが、必ず上位に進出するとだれもが考えていたのだが…。
あまりのハイペースぶりにホンダ勢は動揺してしまったのだろうか、RCBを駆るスタン・ウッズはなんと1周目の最終コーナーで転倒。前年の欧州チャンピオンであるクリスチャン・レオン/ジャン・クロード・シュマランが駆るもう1台のRCBも、3時間目を迎える前にバルブトラブルでリタイアしてしまう。そして2台のRCBが去った後、トップ争いを繰り広げたのは、前述したヨシムラのスズキGS1000、モリワキのカワサキZ1、杉本/エムデ組が駆るTZ750の3台だった。
周囲がすっかり暗くなった19時30分、トップでチェッカーフラッグを受けたのはヨシムラで、2位には整備と給油に手間を取られながらも最後まで走り切ったTZ750、3位にはガス欠による15分のタイムロスが悔やまれるモリワキが入った。RCBが自滅したとはいえ、スプリントレース的な走りに徹した3チームが表彰台を独占するというのは、意外と言えば意外な結果かもしれない。
しかしこの傾向は、翌年以降になるとさらに顕著になり、鈴鹿8耐を制するには欧州の耐久とは異なるスプリントレース的な走り、1時間のスプリント✕4本という気構えが、各ライダーにとっての必須要素となっていくのである。

■ホールショットこそモリワキZ1+クロスビーに譲ったものの、1周目の途中からトップに立ったヨシムラスズキGS1000は、以後、レースが終わるまでその座を譲らなかった。序盤は2分22秒台で飛ばしていたクーリーとボールドウィンだが(予選でのベストタイムは2分21秒20)RCBが戦列を離れた3時間後には、ピットからの指示でエンジン回転数の上限を9000→8500rpm、タイムを24~25秒台に落としてタイヤを温存。4時間経過後のピットインでは、フロントアクスルのスタッドボルトが折れるトラブルに見舞われたが、ボールドウィンの機転で応急処置を施し(タイムロスは約5分40秒)、無事にコースに復帰した。最終的な周回数は2位のTZ750に4周差の194ラップ。

■表彰台でインタビューを受けるヨシムラチームの面々は、右からPOP吉村(故吉村秀雄)、マイク・ボールドウィン(70~80年代のAMAで活躍した後に、世界GPにも参戦)、故ウエス・クーリー(ヨシムラ初の契約ライダーで、79/80年にAMAスーパーバイクチャンピオンを獲得)。

■HERT(ホンダエンデュランスレーシングチーム)の結成から3年を経て、初めて日本のレースに参戦したワークスRCB。この年のマシンはRC482Aと呼ばれる4代目で、70✕64.8mm、997ccのDOHC4バルブ並列4気筒は135psを発揮。1次減速はギヤ式で(量産モデルのCBシリーズはチェーン式)、マグネシウムボディ+樹脂製フロートのキャブレターは負圧式。夜間走行が短い鈴鹿では単眼ヘッドライトだが、欧州の24時間耐久では2眼を使うことが多かった。前後ホイールはホンダ独自のコムスターで、タイヤはまだスリックではなく溝付き。

■6時間経過後にガス欠で2位から3位に後退したモリワキZ1。ただしアンカーを務めたクロスビーは、1位のヨシムラより2秒、2位のTZ750より4秒ほど速いタイムで夕暮れの鈴鹿を周回。結果的に順位は変わらなかったものの、驚異の追い上げに観客は大いに湧いた。

■1周目で転倒リタイアを喫したスタン・ウッズ/チャーリー・ウイリアムズ組のRCB。ホンダの名誉のために記しておくと、同年のRCBが参戦した耐久の中で、優勝できなかったのは鈴鹿だけである。
あらゆるジャンルのモデルが混走した黎明期ならではの8耐レースマシン

■当時のヨシムラの本拠地だったアメリカではなく、日本で製作されたスズキGS1000は、基本的には同年のデイトナスーパーバイクでデビューウィンを飾ったレーサーと同じ仕様。ただし、クイックチャージャーに対応するアルミ製ガソリンタンクとビキニカウルは、8耐のために準備したスペシャルだ。フレームはSTDベースに補強やレイダウンが施されており、前後ショックはカヤバのレース用。パワーユニットに採用された2本リングの鋳造ピストン(ノーマルと同じ70mm径)やハイカム4-1マフラーなどはもちろんヨシムラ製で、キャブレターはミクニスムーズボア。

■モリワキが持ち込んだカワサキZ1は、自社製69.4mm径ピストンを用いて排気量を903→998.6ccに拡大。当時の同社はZ1用としてST-1とST-2、2種のチューンアップキットを準備していたが、8耐で使用したのは耐久性に優れるうえに車体とのマッチングがいいST-1のほうだった(キャブは京浜CR29)。ノーマルベースのフレームにはモリワキ独自の補強が施され、前後ショックはカヤバとの共同開発品を使用。

■序盤は5位を走行していた糟野雅治/荘利光のモリワキZは、後に登場する「モンスター」の原形と言えるオリジナルフレームを採用。カワサキZ650ベースのエンジンは排気量を739ccに拡大していた。

■デッドヒートを繰り広げる2台のホンダCB750フォアは、いずれもホンダ社内チームからの参戦。#51角谷新二/浅海敏夫は27周でリタイアしたが、#62上田公次/木山賢吾は堅実な走りを見せて6位入賞。

■予選でポールポジションを獲得した杉本五十洋/デビッド・エムデ(写真)のヤマハTZ750は、「スプリントレーサーが8時間も持つわけがない」という周囲の予想を裏切り、2位完走を果たした。なお2サイクル並列4気筒を搭載するTZ750のエントリーはこのマシンのみだったが、2サイクルツインのTZ250/350は78年鈴鹿8耐の影の主役と言える存在で、決勝を走った43台中14台、実に約33%がTZ250/350だった。これに次ぐカワサキZとホンダCBがそれぞれ5台だったことを考えると、TZの多さが理解できるだろう。

■参戦車中唯一となる並列6気筒のホンダCBXは、アメリカンホンダからのエントリー。チーム監督は69年の鈴鹿10耐をCB750フォアで制した菱木哲哉で、ライダーは当時のAMAスーパーバイクで活躍していたレグ・プリッドモアとロン・ピアース。ただしプリッドモアが予選で転倒したため、決勝は代役の藤本泰東とピアースが走った。

■ヤマハXT500用の4サイクル単気筒をオリジナルフレームに搭載するSY2ロードボンバーは、本誌でもおなじみの島英彦が設計を担当。予選順位は25位だったものの、決勝ではパワーに勝る並列4気筒勢をコーナーで軽やかに抜き去って8位で完走を果たした。ライダーは山田 純/石井康夫(写真)。

■スズキの社内チームであるタイタンのGS1000(山名 久/袴田利明組)には、スズキRG500用パーツが数多く導入されていた。もしかしたらこのマシンは、80年代の世界耐久で数々の栄冠を獲得するGS1000Rの原形なのかもしれない。#8のマシンは決勝を4位でフィニッシュ。

当時はまだ4サイクルレーサーのノウハウを持たなかったカワサキファクトリーは、GPレーサーのKR350にヘッドライトを付けて参戦(和田将宏/清原明彦組)。5時間経過後にリタイアするまでは4位を走行していた。

文●中村友彦 写真●八重洲出版アーカイブ 構成●モーサイ編集部・阪本
※この記事は別冊モーターサイクリスト400号(2011年7月号)特集「鈴鹿8耐・空冷リッターモンスターマシンの時代」の一部を再構成したものです。




















































