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バイク乗りにとって欠かせない夏のビッグイベント「鈴鹿8時間耐久ロードレース」。2025年は第46回大会が8月1日(金)〜3日(日)に開催された。これまでに数々のドラマが生まれたレースだが、その源流となる「鈴鹿18時間耐久ロードレース」をご存知だろうか?
鈴鹿サーキットで行われる耐久レースの端緒
鈴鹿サーキットは1962年に開業。その2年後の1964年に開催されたのが、鈴鹿18時間耐久ロードレースだ。今につながる鈴鹿8耐の第1回大会は1978年開催なので、それから遡ること14年となる。
この“18耐”は、8月1日の20時にスタートして翌2日の14時まで走るというスケジュールで、45台が出走した。
そして、このレースには、伝説的チューナーである“POP吉村”こと吉村秀雄氏が総監督として率いる福岡地区のチームも2チーム参戦していた。
本記事ではその2チームのうち、250ccクラスにホンダ CB72で出走した一人、倉留福生さんのコメントを紹介する。

ヨシムラチューンのレーサーが存在感を見せつけた18耐
※以下、 質問者コメント:Q / 倉留福生さんコメント:A と標記
Q:倉留さんがバイクに乗るようになった最初の動機、きっかけは何ですか?
A:中学校を卒業した後に四輪整備士を目指して就職したのですが、17歳のときに見に行った飯塚オートレースで「これは俺の仕事だ!」と衝撃的に思ったのがバイクに関わるきっかけになりました。早速、両親と姉に相談したら「そんな危険な仕事はやってはいけない」と猛反対。しかし、バイクに対する情熱は諦めきれず、二輪整備士を目指して転職しました。
そして、その転職先で黒田家系の黒田さんと出会ったことで、バイクと人生に深みを与える縁がつながっていったのです。黒田さんは特に頭脳明晰でセンスがあり、バイクに関する知識・統率力・人間性において見習う点が多く、師弟関係のように私を指導してくれました。黒田さんと知り合わなかったら、今の自分は無かったかもしれません。
Q:ヨシムラ入社や、鈴鹿18時間耐久レース参戦までの大まかな経緯は?
A:二輪整備に慣れたころ、米軍主導で開催されていたドラッグレースを見るために板付に行きました。そこで、店のお客様が購入したCB77の新車に乗ってレースに出ていいと言われたのですが、もし壊したら申し訳ないと断ると、メーカー保証があるから大丈夫とのこと。それでもエントリー費の1000円がない!と言うと、米兵の彼女がエントリー費を出してくれたので出場。すると、優勝することができました。
その話が広がり、さらに、芦屋のレースでも連勝したことによって九州ではクラス最速となったことが、吉村秀雄氏の興味を引いたようです。当時、吉村氏自身も650ccのバイクでレースに参戦しており、本戦が終わった後に吉村氏からアフターレースをしようと持ちかけられました。排気量差(編集部註:CB77は305cc)のハンデとして5ブロック、1ブロック8mなので40m、というハンデを提示されたのですが、私はそんなに必要ありませんと言い、最終的には3ブロック、24mのハンデでレースを行うことになりました。この勝負に僅差で勝利したのですが、その後、吉村氏に「給料を2倍出すからヨシムラで働いてくれないか」と言われたので「オヤジさんの技術を教えてくれるなら、給料はいくらでもいいですよ」と言って、ヨシムラで働くことになったのです。
吉村氏は九州の二輪業界を盛り上げるべく、米軍と協力して空港などでのレース活動を主導しており、1962年には八重洲出版の協力を得て「第5回全日本モーターサイクルクラブマンレース」を雁の巣レースコースで開催して、自身もそれに参戦する奮闘ぶりでした。また、そのころは鈴鹿サーキット建設も計画されていて、吉村氏は意見を求められたため現地視察にも行っていました。
そして、鈴鹿サーキット完成後、初めての耐久レースとなる18時間耐久レースが開催されることになり、吉村氏のチームも参戦することとなったのです。




Q:鈴鹿18時間耐久レースで印象深かった出来事は?
A:コーナリングスピードを稼がないといけないため、高速でコーナーに進入するのですが、走り始めたころは恐怖との戦いでした。吉村氏は恐怖心を押さえるためには「突っ込む前に大声を出せ! そうしたら恐怖を克服できる」など、元予科練出身らしいアドバイスをくれましたね。
また、最高回転数でライバルに勝るヨシムラチューンCB72はストレートでは最速だったので、先頭を走っているマシンに追従してレースの最後に追い抜こうと思っていたのですが、ピットからの指示は「抜け」! 吉村氏は鬼の形相だったので指示どおりに直線で抜きましたが、相手の排気量のほうが大きいため、さすがに上り坂で抜かれて、また直線で抜き返すと言うデッドヒートを繰り返すことに。観客は喜びましたが、死力を尽くして競り合った2台は完走することができませんでした。
ほかに印象に残っていることとしては……鈴鹿サーキットでレースの準備をしていたときに、別のチームのスタッフが池でおぼれていると聞き、「おい! 行くぞ」と吉村氏に率いられて救出に行ったことですね。現場では、取り巻きは多かったのですが全員泳ぎに自信がないのか、池に飛び込み救出に向かう人がいなかったため、ヨシムラチームが池に入り、最終的には吉村氏がおぼれた人を池底から引き上げたんですよ。
Q:鈴鹿18時間耐久レースで走らせたCB72レーサーの特徴、運転感覚は?
A:本田宗一郎氏が作ったCB72は良いバイクでした。それをオヤジさんが改造したらとにかく、戦闘機のように軽く、良く回るエンジンでパワーが出て、ほかのマシンとは違うレーサーマシンとなっていました。
そういえば、当時のサーキットではエイボン製のタイヤが主流でしたが、そのころは1本1万円(編集部註:1962年の大卒男子初任給は1万8000円ほど)もしましたね!


Q:鈴鹿18時間耐久レース参戦後は、倉留さんはどんな活動をなさっていたのですか?
A:九州では米軍も徐々に居なくなり、関東の方がレース活動が盛んだったので、吉村氏も会社を関東に移したのですが、その際に私は九州でのお客様をサポートするために独立しました。
その後、吉村氏がアメリカに行くことになったときは同行するつもりでしたが、親の面倒を見ないといけなくなり断念。しかし、吉村氏がアメリカで苦境に立たされ、応援要請が来たときは、自分の店を休業してアメリカに応援に行きました。そこで、当時750ccモデルを開発していたスズキと吉村氏との縁を結ぶことになります。
Q:2024年の鈴鹿8時間耐久レースは現地入りなさっていましたが、どのように感じましたか?
A:自分が乗っていたCB72を見て、当時のことを走馬灯のように思い出し、血がたぎるような思いが蘇りました。また、今のレーサーを見て、当時のバイクよりも性能が良く、羨ましく思ったりもしました。
私はバイクを通じていろいろな経験をして、いろいろな人達に会って、とても良い人生を送っていると思います。今でもバイクが大好きです。
バイクはカミソリなんです。取り扱いを間違うと死亡事故になる。自分の店をやっていたころも、そのことは常々ライダーたちに言っていました。


ヨシムラゆかりの地「雁の巣」では今年もパネル展示を実施
なお、今回のインタビューで言及されていた、ヨシムラ飛躍の足がかりのひとつとなった「雁の巣レースコース」は、現在はなくなっているが、その存在を後世に伝える展示が福岡県福岡市東区にある雁の巣レクリエーションセンターで実施されている。
○雁の巣サーキットパネル展
場所:雁の巣レクリエーションセンター(福岡県福岡市東区奈多1302-53) 旧売店(F駐車場、バスロータリー前)
展示期間:2025年7月14日(月)〜8月31日(日)
時間:10〜17時
観覧無料 駐車場:300円(1時間以内無料、バイク駐車料金無料)

また、10月19日には、去年初開催されて盛況を見せた「ガンノス・グランドリバイバル」が雁の巣レクリエーションセンターで再び開催される。こちらは吉村秀雄氏が福岡でレース活動を行っていた1965年までに製造されたバイクを対象としたミーティングイベントであり、キッチンカーの出店も予定されている。今回は見学者が多数来場するのを見込んで、前回より広い駐輪スペースが確保されるそうだ。詳細はガンノス・グランドリバイバル公式インスタグラムで順次発表される予定なのでチェックしてほしい。
○ガンノス・グランドリバイバル2025
場所:雁の巣レクリエーションセンター(福岡県福岡市東区奈多1302-53)
開催日:2025年10月19日(日) ※雨天中止
時間:10〜15時
ミーティング対象車両:1965年までに製造されたバイク
募集車両台数:35台

倉留さんたちが情熱を燃やしたその地の歴史に興味を感じた人は、雁の巣レクリエーションセンターを訪ねてみてはいかがだろうか。
report:モーターサイクリスト編集部 取材協力:和白商工連合会雁の巣部会
雁の巣レクリエーションセンター
https://www.gannosu-rc.com/





































