「前回の東京オリンピック」こと1964年東京オリンピック。その前哨とも言うべき一大イベント・聖火リレーにおいて、走者の先導と周辺警護という重要な任務を担ったのが白バイとその隊員たちだった。
その当時、白バイとして使われていた主要な車種はホンダやヤマハ……ではなく、メグロこと目黒製作所の二輪車だったのだが、東京オリンピックに日本がわいた時代は、戦前派メーカーから戦後派メーカーへと、白バイが「選手交代」したタイミングでもあった。
ニッポン白バイ史・戦前の「赤バイ」から戦後「交通機動警ら隊」結成まで
日本で警察車両として自動二輪車が初めて制式採用されたのは大正7年、1918年の1月1日とされる。警視庁にアメリカ製のインディアンが3台納入されたのが最初で、路上に少しずつ自動車の数が増えた時期に当たる。
当時はまだ、現在の道交法に相当する法規も未整備の時期であった(明確な法制化は2年後の大正9年)。文字どおり無法地帯だった路上では取り締まりの必要が生じ、二輪車ならではの機動力を生かそうと考えたためだろう。
当初は「白バイ」ではなく、インディアンのオリジナルの塗色そのままの赤だったため「赤バイ」と呼ばれることになった。
現在のような「白バイ」が登場したのは1936年8月1日のこと。
同じくアメリカのハーレーダビッドソンをノックダウン生産した「陸王」を制式採用したことに始まる。
太平洋戦争下の休止期を経て、白バイは戦後の復興期にさらなる発展を遂げていく。
1951年になって「交通機動警ら隊」が結成されると、陸王のみならず、みづほ自動車製作所のキャブトンやメグロが白バイとして各地で使われるようになっていったのだ。
(みづほ自動車製作所、目黒製作所とも戦前から大排気量車を手がけており、当時における老舗二輪メーカーだった)
老舗大型二輪車メーカーの実力を発揮し、メグロは白バイに参入
白バイは二輪車の機動力を生かし、本来の用途以外にパレードなどの先導車としても使われてゆく。よく知られる例は、毎年正月に行われる箱根駅伝だろう。
1964年の東京オリンピックにおける、聖火リレーの先導と警護も警察の白バイ隊に白羽の矢が立った。そこで主に使われたのが、空冷500cc並列2気筒エンジンを搭載するメグロ・スタミナKPである。
目黒製作所は1925年、村田延治・鈴木高治の両名により東京市荏原郡大崎町桐ヶ谷(現・東京都品川区大崎)に設立されると、モーター商会の三輪トラックMSA号が搭載することになる2段ミッションの製作に成功し、信頼性の高い「目黒のミッション」として有名になった。
今日、ビジネスバイクや小排気量車に採用されるロータリー式ミッションも同社が初めて開発したものである。
車両メーカーに供給するトランスミッションの製造で礎を築いた目黒製作所は、1937年の空冷500㏄単気筒・メグロZ97(車名の97は1937年=皇紀2597年だったことに由来)を皮切りに完成車の生産を開始。そこから戦前を代表する大型二輪車メーカーとして成長してゆく。
なお、Z97の改良版メグロZ98は、1939年に白バイとして警視庁に10台納入されている。これが目黒製作所初の白バイとなった。
戦後は、Z98をメグロZとして再生産することから始め、1950年代には空冷500㏄単気筒のZシリーズ、空冷250㏄単気筒のSシリーズ、空冷650㏄並列2気筒のTシリーズなど車種を拡大していく。
1960年代には、元祖白バイの陸王が衰退して生産中止となり、目黒製作所は大型車メーカーの重鎮として存在感を増していった。
このタイミングで登場したのが、単気筒のスタミナZ7に代わるスタミナKである。高速時代に対応した、新設計の空冷500㏄並列2気筒エンジンを搭載し、車体デザインは伝統的なメグロのイメージを引き継いでいた。
これを白バイ仕様に特装したのがスタミナKP(Pはポリスの意)である。当時の500㏄クラスの大型車は、白バイ需要を見越して開発するのが普通で、スタミナKも当然例外ではなかった。
戦後派メーカーの台頭・最後のメグロ製白バイとなったスタミナKP
聖火リレーの先導で、アップハンドルのスタミナKPに背筋をピンと伸ばしてまたがる白バイ隊員たち。東京オリンピックは敗戦から立ち直った日本が世界に注目される機会であり、戦後ニッポンが築いてきた安全な社会を期間中も断固守る……という緊張感が任務に当たった隊員にはあったという。
一見すると悠々とした走りっぷりだが、実際の任務は難しいものだった。ミラーの視認のみで後方のランナーとの距離を保ちつつ、同時に周辺の警護にも当たることが常に求められた。
未舗装路もまだ多かった当時、高い運転技術を持つ白バイ隊員にしかその任務は遂行できなかったと言い換えることもできるだろう。
だが戦前からの名門・目黒製作所も、日本中がわき立つ東京オリンピックの年には、すでに消滅せんとするメーカーのひとつとなっていた。
ホンダやヤマハなど戦後派の新興メーカー群が大いなる脅威となっていたのだ。特にホンダは1958年のスーパーカブC100が大ヒットするや、トーハツを抜いてトップメーカーの地位を確固たるものにする。
1950年代半ばには全国に最大で204社もあったとされる二輪メーカーは、1950年代末に向けて急速に淘汰が進み、スーパーカブの登場でトドメを刺されたメーカーも少なくなかった。
そして1960年代は、現在も残る4メーカーの寡占化が進む時代となっていったのだ。戦前派老舗メーカーが、戦後も長らく従来の技術の焼き直しに甘んじていた間、日夜技術革新に挑み続けた戦後派新興メーカーが増え続ける国内の二輪需要を鷲掴みにする構図となったのである。
レポート●オールドタイマー編集部・神山雅道 写真●佐藤正巳/沖縄県公文書館 取材協力●倉林高宏/浅間ミーティングクラブ 編集●上野茂岐