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ファクトリーとプライベーター合わせて11台がエントリーしたCB900/750Fベース耐久レーサー

2年目を迎えた鈴鹿8耐はレギュレーションが少々変更され、一般市販車改造クラスは1000ccまで、市販レーサークラスは500ccまでとなったものの、さまざまなジャンルのマシンが混走するのは前年と同様。ただしこのレギュレーション変更を受けて、プロトタイプに該当するファクトリーマシンのホンダRCBは参戦が認められなくなってしまった。
とはいえ、1978年の鈴鹿では惨敗を喫したホンダである。新型CB900F用エンジンをベースとする耐久プロジェクトは早くから進められており、1979年の8耐にはRCBレプリカと言うべき3台のワークスCB900を投入(運営はイギリス/アメリカ/オーストラリアの各チームに委ねられた)。さらにこの年のホンダは、社内チームのブルーヘルメットから3台、RSCから1台のCB-Fを出走させ、盤石の態勢を築いて鈴鹿8耐に臨んだのである。
その結果は、見事な圧勝だった。予選で抜群の速さを発揮したのは、スーパーバイク→TT-F1仕様となったモリワキのカワサキZを駆るグレーム・クロスビーで、決勝序盤で観客の度胆を抜いたのは、最後尾から瞬く間にトップに躍り出たTZ750改500の金谷秀夫(世界グランプリでも活躍したヤマハのトップライダーだが、この年はプライベート参戦)だったが、終わってみればホンダ勢が1~8位を独占(6位と8位は2サイクル単気筒を搭載する市販レーサーのRS250)。ひとつのメーカーがここまで上位を独占するのは、以後の8耐にも例がないことだ。


■エンジンが市販車ベースでエントリー名はCB900だったが、79年の鈴鹿を走った#5/6/9は、TT-F1レギュレーションを前提に製作されたバリバリのホンダファクトリーマシン。翌年からは車名がRS1000に変更され、同時に市販車の戦闘力を高めるパワーアップキット(24時間耐久が前提の67.8✕69mmと、スプリントレース用の71.6✕62mmの2種が存在。ノーマルのCB-Fは750が62×62mm、900が64.5×69mm)やドライサンプキット、強化クランクシャフト、乾式クラッチといったレース用パーツもRSCから販売された。
もちろん、ライバルたちはこういった事態を傍観していたわけではない。だが前述したクロスビーと金谷に刺激されたのか、この年は序盤で順位が次々と入れ替わる目まぐるしい展開になり、カワサキファクトリーのKZ1000(清原明彦/和田将宏、徳野政樹/博人)、チームタイタンのスズキGS1000(袴田利明/山名 久)といった有力マシンが早々と戦列を離れ、モリワキZとヤマハTZ750改500もペアライダーの転倒によってリタイア。前年の覇者であるヨシムラは、スズキ本社製TT-F1フレームとブレーキに問題を抱え、一度も上位に顔を見せることなく7時間経過後に姿を消してしまった。
一方のホンダ勢にも、アメリカチームに所属するデビッド・アルダナの転倒、4時間経過時まではトップを快走したRSC車(木山賢悟/阿部孝夫)のエンジントラブルによるリタイア、イギリスチーム(ロン・ハスラム/アレックス・ジョージ)のミッショントラブルといったアクシデントが起こった。ただしレース中盤以降の上位3台はすべてホンダで占められ、6時間が経過したころには、多くの観客がホンダの勝利を確信していた。
前年以上のハイペースとなった2年目の8耐だが、トップでチェッカーを受けたのは黙々と仕事を続けたオーストラリアホンダのトニー・ハットン/マイク・コール組。速さより確実さを追求した彼らは、耐久レースの王道と言うべき走りを披露してくれたのである。

■表彰台を独占したホンダライダー。左から2位のロン・ハスラム/アレックス・ジョージ(イギリス)、1位のマイクコール/トニー・ハットン(オーストラリア)、3位の角谷新ニ/浅海敏夫。

■チームRSCからエントリーした阿部孝夫/木山賢悟組のCB900は、実質的にはファクトリーマシンと言える仕上がり。予選では2分19秒22をマークしてホンダ勢最上位の3番グリッドを獲得したものの、エンジントラブルによりリタイア。

■ノーマル然としたスタイルながら、鈴鹿レーシングの築地三千盛/森田隆が駆ったCB750Fは決勝で4位入賞を果たした。

■角谷新二/浅海敏夫ペアのCB900Fはホンダ社内のレーシングチーム「ブルーヘルメット」がわずか1ヵ月で製作。エンジンにはRSCキットを多用するが、車体はほぼノーマルだ。
鈴鹿8耐1979:トラブルで戦列を離れた有力チーム、走り続けたプライベーター


■2連覇をねらうヨシムラGS1000は、この年フレームをスズキ本社製としたTT-F1スタイルで参戦。しかしそのフレームの完成が遅れたため、十分な熟成を行わないままで8耐ウィークを迎えることとなった。決勝ではフロントブレーキ(当時としては画期的なフローティング式ディスクを採用)にトラブルが多発して何度もピットイン。それでもウエス・クーリー/ロン・ピアース(この年からヨシムラに加わったライダーで、同年のAMAスーパーバイクでクーリーに次ぐシリーズランキング2位を獲得)は走り続けたが、7時間目に軽量化で強度不足になっていたコンロッドがクランクケースを突き破り、結果はリタイア。


■エントリー名はKZ1000となっているが、カワサキが和田将宏/清原明彦と徳野博人/政樹に託した2台は、初代KR1000と言うべきファクトリーレーサー。量産型Zシリーズとはまったく異なる構成のダブルクレードルフレームは、世界グランプリ用のKR250/350を開発していたレースグループが担当し(トキコ製キャリパーやモーリスホイール、アルミスイングアームなどはKR250/350に通ずる要素だ)、エンジンはなんとモリワキに出向いて修行を積んだメカニックがチューニング。左出しの4-1式マフラーは翌年以降に活躍するZ1改レーサーにも引き継がれた。決勝では両車とも転倒リタイアとなったが、徳野ブラザーズは序盤で一時的にトップを走り、和田/清原組は3時間目まで3位を快走していた。


■前年はテストケースとしてZ650改739ccにオリジナルフレームを導入したモリワキだったが、79年は本命と言えるグレーム・クロスビー/富江昭孝ペアのZ1にクロモリ鋼管を用いた独自のフレームを採用。その形状は当時のレーサーの主流であるロブノース型と言えるもので(ステアリングヘッドとスイングアームピボットを直線的なパイプで結んでいるのが特徴)、洗練度という点ではモリワキ製がピカイチだったが鈴鹿では惜しくもリタイア。なお、同車は鈴鹿8耐だけのために製作されたのではなく、イギリスTT-F1選手権やマン島TTにも参戦して大活躍。いつの間にか「モンスター」と呼ばれるようになり、これが後に市販されるコンプリートレーサーの正式名称となった。

■金谷秀夫/藤本泰東が駆ったマシンはTZ750をベースにTZ250のシリンダーを組み込み、排気量を500ccとしてレギュレーションに対応した8耐スペシャル。決勝序盤では金谷が2分17~18秒台で走り周囲を騒然とさせたが、途中リタイア。

■前年に8位に入ったロードボンバーの発展型として生まれたシマ498Hは、島英彦による新設計フレームにホンダXL500用のSOHC4バルブ単気筒を搭載(ホイールもホンダ用コムスター)。予選では前年-5秒となる2分30秒20をマークし、決勝では5時間経過時まで7位と大健闘していたが、ブレーキトラブルで転倒を喫し、最終的な順位は33位。ちなみにこの年はホンダの社内チームである浜松エスカルゴも、XL500をベースとするロードレーサーを2台走らせたが、結果は35/37位だった。

■本命のモンスターZ以外に、この年のモリワキはノーマルフレームのZを3台出走させ、Z650ベースのマシンが9位(写真。ただしチーム名はBEET&木の実MRC)、Z1ベースのマシンが10位に入った。

■ヤマハの社内チームである磐田レーシングファミリーからエントリーしたXS1100は(ライダーは和歌山利宏/阿部三吉)、TT-F1レギュレーション用のオリジナルピストンで排気量を998ccに縮小したうえで、ソレックス製キャブレターや4-1式マフラーを採用。タイヤはヨコハマに特注したノーマルサイズのスリックで、リヤのエアサスはカヤバ。決勝では序盤でピストン交換を行いつつも、32位で完走を果たした。

■現在はケンツスポーツの代表を務める川島賢三郎は、ヨシムラ製ピストンで排気量を449ccに拡大したGS400で参戦し、24位で完走。キャブはCR、リヤショックはS&Wで、容量18LのガソリンタンクはGS750用。

文●中村友彦 写真●八重洲出版アーカイブ 構成●モーサイ編集部・阪本




















































