日本中の若者がバイクに熱狂した1980年代。メーカー各社から生み出されるマシンたちは日進月歩の進化を続け、数々の新機構、新技術を生み出していく。
生まれたばかりの技術は完全ではなく、その熟成に長い時間も必要だったが、進化と淘汰を繰り返しながら評価され、いまを形作る技術となったのである。
今回は80年代を中心とした時代に生まれた技術がどのようなものだったのかについて迫っていこう。
※本記事はMotorcyclist2018年1月号に掲載されていたものを再編集しています。
復活の兆し
過給システムの今昔
1980年にホンダCX500TURBO、82年にはヤマハXJ650turboとスズキXN85、84年にカワサキ750turboと、相次いで国産ターボバイクが登場したのは80年代前半だ。
目的は70年代に強化された排ガス規制によって低下した出力を補うことで、カワサキ以外の3メーカーは650ccまでの排気量で、回転を上げずに中速付近で高出力を得る方向性で開発されていた。
ヤマハは40%の出力向上を実現するなど、ターボは成功するかにも思えたが、タービン周りの重量増加と熱問題そしてコストが問題となり、4メーカーとも1機種で開発を停止。
そして現在、カワサキはH2を送り出した。再び見直されるかもしれない。
軽く強く
レースブームで普及したアルミフレームのルーツと定着
最初のアルミフレーム採用は60年代のスズキGPレーサーだったが、製造技術やコストの問題でその後は見送られていた。
再びアルミパイプフレームが登場したのはGP500で、80年にヤマハ、81年にスズキ、83年にホンダが採用した(カワサキは80年にアルミモノコックを使った)のだ。
目的は材料置換による軽量化であり、材料入手経路や加工技術が確立され始めた。
それをいち早く市販車に投入したのはスズキで、83年のRG250Γと84年のGSX-Rだ。
以降各メーカーがこぞってアルミフレームを採用した。
レースではフレームの構造そのものを進化させようと、ヤマハが極太中空パイプを用いたデルタボックスを83年に投入。
これによってツインチューブタイプのアルミフレームが普及することになったのである。
サスの革命
リンク式モノショックは一気に時代を加速させた
72年、ヤマハのモノクロス=モノショックの登場は、車体における大きなイノベーションだった。
しかし、真に革命的だったのは、リンケージ機構によって作動特性に非線形のレシオを持たせたリンク式モノショックだった。
その原点はベルクランク+プッシュロッドを用いた77年のカワサキユニトラックであり、走行安定性やトラクション性が格段に向上したのだ。
同時期に革新的な足まわりを追求していたホンダは、さらにそれを進化させたボトムリンク式=プロリンクを開発。
以降各メーカーが約10年にわたってさまざまなリンク機構を開発し、バイクの走行性能は大きく進化。
そして長年の開発の結果、現在は各メーカーとも、おおよそプロリンク的な構成のサスペンションに落ち着いているのだ。