report●関谷守正 photo●岩崎竜太/編集部
※本記事はMotorcyclist2019年9月号に掲載されていたものを再編集しています。
なぜ肉なのか、なぜおいしいのか
情報伝達や流通が発達した今の世の中、たくさんの人が暮らす場所にいれば大抵の物が手に入る。
生鮮食品もそうだ。ちょっとしたスーパーへ行けば、それなりに選択肢がある。
ただし、それが地元産だったり、そこで収穫された物なのかと言えば話は全く変わってくる。
長野は「肉の王国」だ。
〝長野を走れば肉に当たる〟と言ってもいいほど、様々な肉が食べられる。牛、豚、鶏(とり)はもちろん、馬、羊、そして鹿や猪(いのしし)などのジビエまでそろっているし、果ては今後公開の記事で紹介する昆虫や味噌(原料の大豆は「畑のお肉」と呼ばれる)といったものまで、そのほとんどが地元産である。
47都道府県中8県しかない海の無い県、そのひとつである長野は、ご存じのように国内有数の山深い場所であると同時に、歴史的に〝中央〟から距離が離れていたため、海産物によるたんぱく質の摂取が困難だったという歴史がある。
それ故に今では名物となった〝昆虫食〟も貴重な栄養源であったことはよく知られている(もっともイナゴの佃煮に代表されるように、昭和40年代くらいまでは全国で昆虫食の習慣はあった)。
では、なぜ〝肉〟なのか? 調べてみると、実はその多くが長野の畜産業の新たな指針として、昭和50年頃から始まったものだ。
種類によっては新たな〝信州ブランド〟として県主導の取り組みが行われている物もある。
例えば長野県産りんご果汁の絞りカスを食べさせる、『りんご和牛信州牛』は昭和48年にブランド化に取り組み始めているし、いわゆる無菌豚の飼育は平成3年の参入で、それら『信州ポーク』に代表される銘柄豚は県下に13銘柄ある。
他にも『信州福味鶏』、『信州黄金シャモ』などのブランド鶏も存在しているし、『信州ジンギスカン』で注目されている羊肉は、衰退した綿羊の代わりに昭和57年から肉用種を飼育したことから始まっている(例外的に馬肉食は、明治時代前半から行われていたようだ)。
これらの多くは、長野県の清浄な水や空気、こだわりの飼料によって健康的に飼育された物が前提になっている。
『りんご和牛信州牛』では統一された飼育マニュアルによって飼料から飼育方法が指定されており、脂肪に含まれるオレイン酸(不飽和脂肪酸。肉のうまみ成分のひとつ)の量にまでこだわっている。
味は人の心と誇りが生み出し育むもの
このあたり、何やらフランスのAOC(原産地呼称統制)やイタリアのDOP(原産地名称保護制度)など、生産物に対するヨーロッパの毅然とした姿勢を想起させて少々感心する。
長野の畜産業が変化した背景には地場産業の変遷や衰退、あるいは景気の動向など様々な理由があるが、結局は自分たちの地元で〝誇りあるおいしい肉を作ろう〟というストレートな想いが根底にあるからだ。
それに、貧しかった食糧事情という歴史を背景にした、食肉へのこだわりもそこにはあるのだろうと想像するのである。
では、その食味はというと、総じて肉が持つ本来の味わいを売りにしているのである。
そこには、安い餌や薬物によって生じる嫌な臭みなどは微塵もなく、当たり前にある獣臭すら希薄なものとしている。
言ってみれば、まったり、こってりした肉の味わいがあり、その後味は爽やかで、脂すら滋味深いのだ。
そして、その味わいに感動すると同時に、人によっては日常において、劣悪な肉を食べている現実に気が付いて、少々悲しい想いをするかもしれない。
日本における食の崩壊は深刻だ。
効率や利益優先で作られた食物は〝安い〟という理由だけで正義だと思われているが、結果的には我々の健康を蝕む要素のひとつだろう。
食肉などはその最たるもので、残留した抗生物質や成長ホルモン、出所不明の安い配合飼料の放つ臭いこそが、その臭みの根源と言ってもいい。
この世に生きるひとりの人間として、自分を取り巻く食の環境を考えたとき、長野の肉は〝美味〟という感動だけではなく、食べることの大切さとそれを支える生産者の姿勢を強く意識させるのである。
と、偉そうに書いてしまったが、たまにはそんなことを考えてみるのも〝おとなの嗜(たしな)み〟ではないだろうか。
さすがに銘柄牛は多少高価になるが、その味わいは感動や経験を間違いなく高めてくれるはずだ。
おしなべて都会よりも安く、コストパフォーマンスは最高。
そんな良質な肉が手軽に食べられるのだから、長野に行ったら放っておく手はない。
そして、おいしい肉は県下に散らばっているから、バイクの持つ機動力こそ、肉を巡る旅にピッタリだ。