時流に左右されない正しい本質を思う
翌日訪れたのは栃木と群馬の県境付近にある足尾銅山。
ここは日本の歴史的断面であり、〝破壊と再生〟の真っ最中にあるモニュメントだ。
明治時代には日本一の生産量を誇る銅山として富国強兵を支え、戦中には軍需会社として隆盛。同時に日本初の公害事件が起きた場所である。
日本の近代化と国力増強の一端を担ったことが〝明〟であれば、地域一帯を広範囲に侵食・汚染した鉱毒事件はこれ以上ない〝暗〟だ。
73年に閉山し、80年代まで銅製錬は操業されていたため、あたり一帯の寂寥(せきりょう)感はまだ生々しい。
しかし、精錬時に発生した亜硫酸ガスによる酸性雨で禿山となった周囲の山々には、植林と自然発生の両方なのか目にも眩しい新緑が点在し、新しい時が確かに流れ始めている。
おのずと〝破壊と再生〟という言葉が脳裏に浮かぶ。
社会貢献、国力増強という点では、この銅山にも大きな意義があったはずだ。
しかし、その功罪の〝罪〟があまりにも大き過ぎた。
この銅山の遺骸は、そんな人間社会の罪深さを教えている。翻(ひるがえ)って、人々の暮らしを豊かにし社会に貢献するという点で、カブには功罪というものはなくただひたすら〝功〟だけがある。
そこで思ったのは、人が生き続けるために何を選ぶのか、人生を走り続けるために何に乗るのか、ということだった。
巨大な遺構物に対峙するちっぽけな自分と等身大のカブ。滅びた者と力強く生き残る者。

●銅山を所有していた古河鉱業の社宅跡。足尾銅山は1610年に開山し1973年に閉山。約460年の歴史を誇った
カブの魅力は、ただ便利なだけではなく、ただ走りやすいだけでもない。
その等身大のスケールには、乗る者の感性の延長となり、その能力を適度に拡大する〝増幅装置〟的な魅力があるはずだ。
そして、明確な理由はいまだ分からないが、日本の社会に、日本人という民族に寄り添うことができるプロダクトのひとつは、間違いなくカブなのだと思う。
時が流れ、時代が移り変わり、多くの物事が変化や進化していく中、人間の進化の速度はそれほど速くはないから、本質的に変わらないものがある。
タカタカしたエンジンのリズムやギヤチェンジの音、そして風の感触は、50年以上前に祖父の運転するCM90の、その背中で感じたものと同じだった。
- ●足尾の町の西側を走る元JR足尾線(現わたらせ渓谷鐵道)の運行は間藤駅で終わり、そこから精錬所へと続く貨物引込線は廃線となる
- ●精錬所の大煙突。89年の操業停止後は「近代化遺産」として保存されている。排出された亜硫酸ガスの影響で周囲は荒涼とした景色
- ●銅山西側にそびえる備前楯山を周回する県道293号沿いにも銅山関連施設が点在する。道路沿いを流れる庚申川にかかる小滝橋は古いトラス橋。すぐ側の廃道には採鉱に使った火薬庫の跡がある
- ●足尾の町の北側から県道293号を反時計回りに行く。舗装林道が約11㎞続く
- ●小滝橋近くには明治以前の抗口があり、精錬所と選鉱所の痕跡として石垣や建物の基礎が残っている
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