「燃料タンクには赤と白が使ってある」カワサキ
“カワサキのオートバイにまたがって、ぼくは、にぎりめしを食べていた”
と始まる、片岡義男の有名な小説『彼のオートバイ、彼女の島』。1977年に角川書店から出版され、1980年には角川文庫に収録された同作は、70年代後半~80年代、バイクに興味を持ち始めた青少年たちにとても魅惑的な世界を幻想させた(現在50代の筆者もそのひとりだ)。
『彼のオートバイ、彼女の島』の主人公で、プレスライダーのアルバイトをしている芸大生の橋本 巧(コオ)は、ツーリングに出た先の浅間山を望む高原で昼飯をほお張っているとき、ふと現れた同小説のヒロイン、白石美代子(ミーヨ)に出会う。彼女はコオのバイクを見て、尋ねる。以下はその場面だ。
“「これ、なんていうの?」女のこは、みんなこうだ。燃料タンクにKAWASAKIとエンブレムが入っているのに。
「オートバイ」「きれい」
濃紺を基調にしていて、燃料タンクには赤と白が使ってある。”
小説の1章目では、「カワサキ」と表現されるだけで車名が出て来ないが、2章目でコオの愛車がカワサキ「650RS・W3」だとわかる。
紺を基調に白と赤(実際は赤というよりエンジに近い)の線が入るタンクというから、W3後期型だろう。
W3ことカワサキ「650RS」とはどんなバイクか?
しかし、W3と聞いてもピンとこない人が多いのではないだろうか。
W3は空冷並列2気筒エンジンを搭載したバイクで、1966年代にカワサキ初の4サイクル車登場したW1シリーズ(こちらは「ダブワン」の愛称で有名だ)の後継モデルだ。
ただ、W3が新車で販売されていた1973年〜1974年当時においては、バイクとしてもはや時代遅れの存在だった。
というのも、1973年発売の750RS(いわゆる「Z2」)、Z400RSとともに、販売戦略上「RSシリーズ」(ロードスターの意)と銘打たれた650RS・W3だが……国産初のナナハンDOHC並列4気筒の750RS、カワサキ初のOHC並列2気筒400ccのZ400RSに比べ、1960年代に登場したW1と基本的には同様の624ccOHV空冷並列2気筒エンジンを搭載したW3は旧態然としたものだった。
実のところ同車は、1976年に登場するミドル4気筒 Z650(「ザッパー」の愛称で有名)までの「つなぎ役」だったのだ。
だが、コオは小説の中で「3年前」に購入したW3を、以下のようにいたく気に入っていた(小説の舞台は1976~77年ごろと思われる)。
“人も車も途絶えた交差点の赤信号でとめられたとき、このオートバイのアイドリングを聞いていて、ぼくは泣き出したのだ。股ぐらの下にエンジンがある、ふたつのシリンダーの中で、混合機の燃焼が、くりかえされている。その音やリズムが、そのときのぼくの心臓の鼓動と、ぴったりかさなっていた。”
このW3でコオはプレスライダーをし、時には乱暴に煽る4輪車と格闘し、仕事仲間と死に物狂いのツーリングをし、ミーヨの故郷の瀬戸内の島へ出かけたりする。
どんな時にも一緒、まさにバイクとともに生きるコオの人生が、当時高校生だった自分には苦味も甘みもないまぜで眩しかった。
W3がどんなバイクなのか、当時、興味を持った人も少なからずいたのではないだろうか。しかし、1980年前後のバイク雑誌にW3は影も形も出ていない。
1974年末に生産終了となったこともあるが、当時、国産4メーカーは多気筒化、高性能化、水冷化を突き進めていた時代。クラシックな空冷並列2気筒エンジン車を振り返る風潮はほぼなかったのだ。
レポート●阪本一史 写真●澤田和久/編集部 編集●上野茂岐