第三京浜、ドラッグレース、イジるほど速くなる相棒に首ったけ
まだバイクのメカニズムが"ブラックボックス化"していなかった時代。
装着したマフラーの性能やキャブのセッティングに一喜一憂し、テストと称しては右手をひねりあげて「聖地」へと向かう。
今より夜が熱かった-。
report●佐藤信哉
仲間たちとの終わらない夜
平成元年は、オレにとっては特別な年となる。
昭和の末期、1980年代というと、オレがこの業界に足を踏み入れたときであり、23歳~32歳までの、人生の中で最も無茶をやっていた時代だった。
そしてそれはまた……関東地方に住むバイク乗りにとって〝第三京浜〟が絶盛を極めた時代とも重なることとなる。
仲間と顔を合わせれば合い言葉のように「おい、三京行くか」と口にする。
保土ヶ谷のPAは平日でもまるでカスタムバイクの展示場のようだった。土曜の夜などは一般の四輪車が入れなくなるほどのすさまじい台数となる。
だがオレはあまりそこにはいなかった。もちろん「たむろしているなら、走る!」ということを第一に考えていた面もあるが、実は見物は別の所でしていたのだ。
第三京浜には、造成のために分断された地域の利便性を確保するため、町道レベルの小さな橋がひっそりと掛けられているのだが、そこにバイクを止め、タバコを吸いながら眼下の闇を疾走していく連中を眺めるのが好きだったのだ。

●東京と神奈川を結ぶ自動車専用道路「第三京浜道路」。"HIGHWAYTHE 3RD"とも称され全国区に。保土ヶ谷PAにもライダーがあふれた
いや、疾走などという生易しいものではない。
名のあるチューニングショップの手により大改造を施されたカタナやZ、FZRにCB(それも1100Rだ!)などの大型バイクがトップギヤで吹け切らせているのだから、200数十キロは出ているに違いない。
フォアァ~~……! と闇から現れ、フォン! ファン……ファンファン! と数台が一瞬にして通り過ぎ、カアァァァァ~……コオォォォ~……と余韻を引きずる咆ほう哮こうを放ちながらまた彼方(かなた)の闇へと消えて行く。
四輪の改造車もそれなりにはいたが、生身の体をむき出しにし、マシンにしがみつきそれをやっているバイク乗りの連中の前では、完全に色を失っていた。
見るたびに鳥肌が立ち「……カ、カッコイイ!」という言葉が思わず口から出てしまう。
そして(オレも、そのバイク乗りなんだよな!)と、ふと我に返り、よっしゃ……! とそこへ乗り入れて行く。
とんでもないことをみんなやっていたが、議論も合法もへったくれもない。
平成前夜とはそういう時代だったのである。
だが、いつかはそれに終止符を打たねばならないときが来る。
「なに? 250キロだ? 260キロだ? しゃらくせぇ、それならオレは、300キロをたたき出してやらぁ。そしたら、もうやめる!」
時代が昭和から平成へと替わった89年9月1日、オレはスズキのGPレーシング部門の全面協力の下に特別に仕立てられたGSX-R750Rに打ちまたがり、それを旧西独・アウトバーンにて実行した。
ここが第三京浜だったらよかったのになあ……この先に、保土ヶ谷のパーキングがあったらいいのになあと、心の中で、ちょっと思いながら。
0.1秒を削るために全てをかけた"ゼロヨン"

●本誌(Motorcyclist)では88年から「ゼロヨングランプリ」を主催。イエローコーン(写真)、ミハラスペシャリティなどコンストラクターも有名に
日々更新された空冷の限界

●カワサキZ1系カスタムを頂点に、空冷四発チューニングが一世を風び。各チューナーのデモ車が発表されるたび馬力は向上していた
