世界的な2輪・4輪メーカーとして、もはや知らない人はいないであろうホンダですが、かつては”挑戦者”として、広大な北米大陸に活路を求めた時期がありました。
そしてその挑戦のさなか、1968年から69年にかけ、ホンダ二輪車のデザインは事件と呼べるほどの“大転換”を行うことになります。なぜ、その時期にデザインの大転換が行われたのか? 今回はその謎について触れてみることにしましょう。
report●モーサイ編集部/photo●山内潤也
アメリカの危機的状況を回避した“デザイン”
’68年に発表された当時のプロトタイプ車。開発途上であり、随所に市販版との違いが見られる。
1960年代の初頭、当時世界で最大の2輪車市場だったアメリカに進出したホンダは、かの「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」に象徴されるスーパーカブの成功により、極東の新参メーカーは彼の地の2輪市場で存在感を放ち始めていました。
ところが……。’60年代も半ばになると、一時ブームを巻き起こしたスーパーカブの売り上げは落ち込みます。それに加え、’65年に投入した大型スポーツモデルCB450の販売も伸び悩んで、ホンダは一転ピンチに落ち入りました。
スーパーカブは除くとしても、アメリカで売られていた当時のホンダ車のラインナップは、言うなれば日本的な発想でデザインされたモデルたちであり、アメリカ人の嗜好に合致していたとは言い難かったのです。
それに気づくのが遅かったことが、’60年代半ばの危機を招いた一因と言えるでしょう。
しかし、’68年に発表された4気筒エンジンの大型車CB750Fourと、2気筒のCB350。そして兄弟車のCL350で、アメリカ市場でのホンダは完全に息を吹き返すことになります。いずれも、キャンディーカラー(メタリックの下地に、カラークリアを上塗りした塗色)の派手な外装色が与えられ、燃料タンクをはじめとした各部も、それまでのホンダ車とは明らかに一線を画するデザインとなっていました。
アメリカの若者にCB350はピッタリの「相棒」となった。250cc版もあった日本仕様とは塗色が異なる。
CB350をストリートスクランブラーに仕立てたCL350。アメリカでは350シリーズだけで数十万台販売したようだ。
そして、単にアメリカ人好みのデザインだっただけでなく、前者は世界最高性能を常識的な価格で買うことができ、後者は安価で良く走る若者向けエントリーモデルとして、とにかく売れに売れていったのです。
なにせ、当時は1ドルが360円時代。日本車は極めて手ごろな価格で売られており、それに高性能とデザイン性が伴ったわけですから、売れないわけがなかったのです。
2輪の量産市販車用としては世界初となった、空冷の並列4気筒エンジン。以降の国産大型車の指標ともなった。
なぜ、転換することができたのか?
’69年に発売されたCB750Four。「そう多くは売れないだろう」というホンダの読みは大きく外れ、アメリカをはじめ各国で大いに売れた。そのデザインはまさに威風堂々としたもの。道行くライダーたちは、この新型車の姿を畏敬の念で眺めたことだろう。
ホンダの危機を救ったCB750FourとCB350、そしてCL350。これら車両のデザインを手がけたのは、あるひとりの日本人デザイナーでした。
その方は’60年代半ばに行ったアメリカ視察の際、すでに「アメリカ人が好むデザイン」を看破していたといいます。
もちろん、現地駐在員から類似の要望も上がってきてはいたそうですが、それらの要望とアメリカ視察で得たアイデアを初めて製品に反映させられたのが、前述のバイクたちだったわけです。
では、なぜそのデザインがそれまで不可能だったのでしょうか? それにはホンダ創業者・本田宗一郎さんの強いこだわりが関係しているといいます。
本田宗一郎さんは自社製品の造形に対するこだわりが非常に強く、デザイン室を訪れてはあれこれ指示を出すことから、密かに「造形係長」というあだ名を付けられていたそうです。
’60年代半ばまでのモデルは、造形係長……もとい創業者の意向が強く反映されたデザインだったわけですが、ある意味それがアダとなり、アメリカ市場にマッチしたモデルの開発が遅れた……と言うこともできます。
さて、そんな強すぎるほどのこだわりと影響力のある創業者の下で、どうしてデザイン的な大転換ができたのか。これについては時期が味方していました。
ホンダはこのころ、4輪部門で新型乗用車の開発が佳境に入っており、本田宗一郎さんはそちらのほうに夢中で、バイク開発への口出しが極端に減っていたのです。
拍子抜けするような極めて単純な理由ですが、ナナハンを手がけたデザイナーさんはスケッチ画を見せたとき、「いいんじゃねぇか」というアッサリした反応しか返ってこなかったと証言しています。そのため思うようにデザインできたのだ、とも。
なんだそんなことか、と思われるかもしれませんが、案外、歴史を変える出来事は単純な理由から発生するのかもしれませんね。
余談にはなりますが、前出のバイクたちと同じ’68年に発表され、’69年に発売された自社製初の普通乗用車が、創業者肝いりの空冷1300ccエンジンによって苦戦に苦戦を重ね、結局は水冷エンジンになっていったことも皮肉な事実と言えるかもしれませんね……。