ヒストリー

21世紀ホンダ破天荒伝説「Nプロジェクト、その全貌」第2章:中野耕二 主任研究員というヤバイ渦巻

研究所では技術を研究しているのではない
人間を研究しているのだ

弱点だった「若者攻略」のために作られた特殊部隊

第1章で述べたように、ホンダは縮小傾向にあった国内市場において、90年代後半になると250cc以下のモデルで苦戦することになった──この原因は、ホンダが若者カルチャーの動向に疎かったため、若者が興味・関心を持つ商品を作れなかった事にあり、要するに若者ユーザーと商品を開発する者との間で大きなギャップが生じていた事にあった。

ホンダは創業直後から国内の二輪市場をリードしてきたのだから、バイクに乗るユーザーの事は誰よりも分かっているつもりだった。ところが、新しくバイクにエントリーしてくるユーザーは、当たり前だがいつでもその時代における16歳であり、その価値観は時代とともにどんどん変化していたのだ。

その一方、バイクを開発するエンジニアの平均年齢は徐々に上昇していたため、そんな若いユーザーとのギャップが広がり続けていたのである。その結果、気が付いてみるとエンジニア達は若者言葉の意味が分からなくなり、同時に若者の「楽しさ」とはどんな事なのかも分からなくなっていた。

バイクを作る側の意識が、当時の言葉で言えば『オジン』になっていたというわけである。この若者ユーザーと作り手の乖離に危機感を抱いていたのが、デザイン部門出身の中野耕二という主任研究員(当時)だった。それまでもデザイン部門の枠に囚われず、仕事の範囲を商品企画にまで広げていた中野は、デザイン室長や商品企画室長を歴任した有数のヒットメーカーでもあった。

その中野の発案と指示によって、ベテラン数名と若手エンジニア達からなる『若者攻略』のためのプロジェクトが組織されたのだ。もちろん、それまでホンダでは前例のない内容のプロジェクトだった。2000年5月に正式発足したこのプロジェクトは『Nプロジェクト』と呼ばれた。

頭文字のNは「いままでになかった、まったく新しいことをやる」という意味でNew StyleのNを取ったものである。同時に、プロジェクトのメンバー達はプロジェクトリーダーである中野のイニシャルを掛けて、ダブルミーニングで『Nプロ』と呼んでいたと言う。

この中野耕二という人物が、どのような背景を持っているのかをある程度知ることで、『Nプロ』の意図するところと、その源流が見えてくる。

中野耕二氏(2012年撮影)

本当に仕事をするなら外へ行け

1972年入社の中野は、汎用機を経て1978 CR250R/125Rエルシノアを担当、1977年からアメリカ駐在となりHRA(ホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ)でCX500カスタムなどのデザインの他、市場調査や商品企画を担当し、1986年に帰国するまでの10年間、北米向けの多くのモデルに関わっている。
CX500カスタムは、当時の北米で人気だったヤマハのXS650スペシャルに対抗すべく投入され人気を博したモデルであり、中野は80年代に北米で攻勢に転じたホンダの、ニューモデル開発のキーマンのひとりだったと言っても良い──彼には数々のエピソードが伝説として残っている。

  • 日本から出張者が来ると聞けば案内する場所を決め、それが問題なく実施できるかどうか当日のタイスケに基づいてロケハンを行う。同時にその場所の歴史や人口などのデータも調べ上げる。どんなに忙しくても行う。
  • 会社の仲間と一緒に燃費競争レースに出場。業務と言うよりもレクリエーション、自己啓発的な位置付けで参加し、手作りマシンでクラス優勝。各自仕事が忙しくてもその中で出場準備は進められた。
  • 社内で行われたハロウィンパーティーでは、スロットマシーンに仮装し先頭に立って盛り上げる。その仕上がり具合は、体にトイレットペーパーを巻き付けた程度のミイラが100人束になっても叶わないインパクト。この時もきっと忙しかったはず。
燃費競争レース@ラグナセカ ライダーに指示をおくる中野
スリックカートと、スロットマシーンに扮する中野・左腕がレバー(!)

このように遊びやイベントでさえ、一事が万事、徹底してやるという性格だったから、肝心の仕事でもとんでもなくラジカルに行動する人だった。圧巻と思うのは、80年代中盤に北米市場のその後を見据え、同僚と行った現場調査だろう。
キャンピングカーなどで全米各地を数週間旅して回り、そこで多くのバイク乗りと出会い、時にその中に飛び込んで草レースに出場するなど、ユーザーと一緒にバイクを楽しむ事で、彼らの属性やバイクの使われ方、カルチャーなどを徹底的に調べ上げたのだ。

その結果、北米市場においてどのような考えで、どのようなモデルを出すべきかという商品ラインナップ戦略をまとめたのである。それは現場の声を吸い上げた結果、二輪だけではなく、ウォータースポーツ、デザートやスノーライディングにまで領域を拡大した提案書だった。

「マーケティング=調査ではない。調査なんて手法に過ぎない。マーケティングの原理原則は興味と好奇心だ」
「市場を知って商品を作るのが当たり前、何故それができないんだ?」
「研究所の中にお客様はいない。その中に浸っていて良い物なんて作れるわけがないだろう。パソコンでバーチャル企画をやっている場合ではない」

これは後年にNプロのメンバーを前に語った中野の言葉である。
自らが徹底して調べ上げ、五感すべてを動員して市場の現実を感じること。そして、それによる触発を投影する事がまさにNプロの行動原理であり、20年前に北米で行った現場調査を、今度は都会の若者を対象に行うという事がその始まりとなった。そろそろ21世紀を迎えようとする1999年、中野はNプロ結成に先立ち「若者研究」をスタートさせている。

ちなみに、帰国後の中野は朝霞研究所でCBRシリーズやCBR1100XXブラックバードなどに携わり、またVツインマグナ(250)やJOKER等のボトムアップ提案を量産開発につなげ、CB1000SFでは企画から開発立ち上げ時に(企画を巧妙にゴリ押しする事で)大きく貢献し、八面六臂の、あるいは清濁合わせ飲んだ活躍を見せて、2001年に取締役所付から上席研究員へと昇格。2004年には主席研究員となっている。

社内レポート『シブヤの謎』で見えた冷徹な事実

最初に中野が行ったのは、友人である外部プランナーも加えて渋谷のホテルを拠点に現場調査をする事だった。その内容と言えば、渋谷という場所の戦後の歴史研究に始まり、交通インフラとそれにともなう若者の動態、行動スタイル、ファッション、路上で捕まえたユーザーへのインタビュー、あらかじめ用意しておいたスケッチを見せながらのヒアリングなど、多岐にわたった。

これらの手法で渋谷から原宿にかけたエリアで若者の行動や指向を調査・分析したのだが、それは昼間の数時間とか、2〜3日と言った短期間ではなく、もっと長い時間を費やして、現場観察から仮説検証まで、まさに五感を持ってそこに集まる若者を感じようというものだった。
もちろん当時のホンダは、国内でこのような市場の大きなトレンドを捉えるための長時間にわたる現場調査はほとんど行っていない。そして、その結果に基づいて作成された報告書は『シブヤの謎』というタイトルで完成したのだが、それまでの作り手にとってその内容はショッキングなものであった。

それまで、ホンダが得意としてきたユーザーは『ライダー』である。つまりバイク乗りであり、生活や思考の大きな割合をバイクが占めているような人物像だ。彼らはおおよそ下記のような指向性を持っている。

「バイクに乗るための決まり事に従う」
「バイクのためなら他のことを犠牲にできる」
「知識やスキルがバイクとの関わりの深さと関連している」
「ハード的に優れたバイクこそ、良いバイクと考える」
「性能を上げるためにバイクをカスタマイズする」

ところが、調査結果から分かったのは市場のおおよそ半分は、バイクが生活のすべてではなく「(自分の指向性の中で)バイクも好きである」という、いわゆる若者言葉で言うところの『バイカー』と呼ばれる人種だった事だ。

「日常生活の中に『バイクの楽しさ』を取り入れたライトユーザー」
「あくまでもバイクは興味ある対象のひとつにすぎない」
「出資額と楽しさのバランスに関して非常に敏感である」
「バイクの乗り方とか知識にはあまり興味がない」
「カスタマイズはするが、目的は格好良く見せるためである」

「これを見た時にはいろいろ考えました。だらしない格好とか、下手な運転技量とか、不十分なメカへの理解とか──とにかく『もっと真剣にバイクに乗って欲しい』と思いましたし、『バイク道をなんと心得る!』なんて思ったんです。でも現実は、そういったバイカーが世の中の半分を占めており、ホンダにとって未知のユーザーが増えていたのです。結局、世の中から浮いていたのは我々だったのです」と中野は語っている。

例えば、当時の若者との対話の中から「たりぃ感じ」という言葉が抽出された。この「たりぃ」とはどんな意味なのか。そもそもは「かったるい」から派生した言葉であり、そこではちょっと面倒臭いような「ゆるい感じ」というニュアンスを包括している。
しかし、これを「リラックス」と表現し理解すると、その感覚は若者のそれとは乖離してしまう。このようなリアルな若者の感覚や語感を、いかに感じて、いかにモデル開発に結びつけるかが課題として浮き彫りになったのである。

「三現主義(現場、現実、現物の重視)をベースに、若者の感性で自ら信じる道を進み、企画立案を成し遂げる仕組みが作れないか?」
中野はこれまでの体制で若者向けのモデル開発をするのではなく、若者の感性をブレなく取り入れられる開発の仕組みが必要であることを強く認識した。そこから、若者バイカーに限りなく近いポジションにいる、若手のエンジニアによってモデル開発を行うプロジェクト構想が生まれたのだ。

わからない事=知りたい事、やりたい事に挑む

このプロジェクトのメンバーは20代中心で固める。そうなると大卒でも実務経験が4〜5年しかないので、商品開発を任せきるには不安がある。このために、この若手メンバーをバックアップするベテランを何人か置く。
ただし、それまでのように『オヤジ』が若者向けのバイクを作ってしまっては元の木阿弥なので、若者特有の価値観から生まれてくる感覚的なものや魅力といったことについては、一切このベテラン達は口を出さないことにした。
中野は若手メンバーが良いと思うものは、なんとしても守ってやろうと思った。Nプロに在籍したある者は、そんな中野を評してこう言う。

「中野さんは、言っている事やそのスタンスが、部下に対しても、社長までの上司に対しても変わらないので、部下からは絶大な信頼があった。このスタンスに対して部下達は、『中野さんにうんと言わせよう』ではなく、『お客様にうんと言ってもらおう』と考えるようになる」

実はこの頃,中野は朝霞研究所全体の組織的な問題も強く意識していた。それは、組織が大きくなって行く事に伴う効率化・分業化の弊害だった。多くの仕事は開発者にとって担当領域の役割を果たすものであり、1台の完成車、つまり商品を創り上げるという、当事者意識が消失する傾向を強めていたのだ。

それにより、仕事の達成感が得られない、自分が関わったバイクに自分自身を投影できる機会がほとんどないと言ったように、自己の存在感が希薄になってしまう。特に若手はなかなか出る幕がなかったため、いざ商品全体の開発を担う立場になったとしても、それに応えるために必要な幅広い経験が積めていないという事になる。つまり、人が育たないという問題である。

「ホンダは本来、もっと若さと自由さを持った企業のはず。このままではホンダらしさがなくなってしまう」
そんな中野の危惧と時期を同じくして出てきた問題が、若者のホンダ離れだったのだ。したがって、若手エンジニアに対して若者向けバイク開発の場を作る事は、彼らが自らの考えで行動し、現場での実践を通じて自由なバイク作りとその責任感を蓄積するための、人を育てる仕掛けでもあると中野は考えた。
要するにそれは「研究所では技術を研究しているのではない、人間を研究しているのだ」という本田宗一郎の言葉にあるような、ホンダの物作りの根源的な考え方を実践することであった。それもユーザーだけではなく、作り手自身をも研究するものとなったのである。

新プロジェクトの承認を得るため、経営メンバーの説得にあたっては現場調査を手伝った外部プランナー自身に、渋谷系の若者ファッションを装ってプレゼンテーションを行なってもらう等、リアル感を伝えるための演出までした。その結果、研究所執行部から承認が下りNプロジェクトは正式発足した。
お題目は「若者研究をベースに時流にフィットした二輪新価値商品を俊敏に創出し、国内二輪市場の活性化を図る」事であり、「自他非分離の実践で継続的に開発を行う自己完結型開発チームを編成する」事だった。

その方針

  • 若手技術者の感性を活かしたプロジェクトメンバーの共創
  • 自他非分離の考えに基づく意思決定
  • 既存部品の有効活用による短期開発
  • プロジェクトメンバーの自主性を尊重
  • 若者研究の実践として社内公募による若者チームでプロダクトを開発する

意欲あるメンバーを集めるために新プロジェクトは社内公募制とし、さらに集めたメンバーを通常の業務形態から切り離し、物理的にも場所を隔離する事にした。「周囲の雑音を遮断するために隔離しないとダメだった。現在のホンダのスタンダードを一回、全部白紙にしないと『ごっこ』で終わってしまう。図面や技術ではなく、そういう文化というものが必要だった」のだ。

その要件

  • 入社5年未満→「若い柔らかい」アタマの持ち主であること
  • 社内公募→「手を挙げた」やる気のある者であること
  • 少数精鋭→フットワークの良さ
  • 自ら企画・開発する→コンセプト立案能力を有すること
  • 社内評価は行わない→自由と責任・権限を委譲

このNプロ正式発足の直後、若者研究に基づいて開発されたFTRが2000年9月に発売されている。これがスマッシュヒットとなった事からも、中野はNプロ設立の重要性をいっそう強く感じる事になったと言う。

2000年9月に発売されたFTRのカタログ。「渋谷をイメージした街中にダートトラッカー」というビジュアルが、同車のキャラクターを見事に表現している。

加速する渦巻

アメリカ駐在時代の中野が、(仕事や組織の事を考えて)思うまま好き勝手に行動できたのは、その当時の上司によるところも大きいと、かつての同僚は言う。それはその通りだろう。
要求は厳しいが、細かな事や体裁には拘らず、部下の挑戦を応援し、例え失敗しても傷口を広げないように対処する。それだけの腹づもりと覚悟を決めた人物はそうそういるわけでないから、そういう上司に巡り合える事は僥倖であり、部下はそういう環境で存分に仕事に打ち込めるというものだ。

そんな育てられ方をした中野の基本姿勢は首尾一貫してボトムアップであり、トップダウンはない。そして、言った以上はやってもらうと言うわけである。それこそが「二階に上げて梯子を外し、下から火をかける」というところの本道である。

それもまたNプロのポリシーのひとつであり、中野は自分の経験(成功事例)とその精神性を次の世代に伝えようと思ったはずだ。それはバイク作りのノウハウと、そこから生まれる苦難やそれを乗り越えて目的を達成する醍醐味と言っても良いだろう。同時に当時のホンダのバイク作りに対する、強烈なアンチテーゼでもあった。
「三現主義とかチャレンジスピリットとか、そんな掛け声がある事自体、それが出来ていない証拠だ」

Nプロの全体ミーティングの時のエピソードが面白い。
中野の話が抽象的だったので、「そんなスゴイ物なんかできるわけない」という空気がメンバーを支配していた。そこに気付いた中野は「スゴイ物を作れなんて言ってない、楽しい物を作ろうと言っているんだ」と言っている。
また、後日のモデル評価時には「新しい物を作りたいなんて言ってないんだよ、新しい事を起こそうと言っているんだよ。ヤマハはTWで新しい事を起こしたけれど、ホンダは何やってきたのか?」と言い放ったという。

言ってみれば、それはシンプルな問いかけであり、命令ですらない。しかし、シンプル故にそのニュアンスは深く大きく、そして本質的、根源的だった。要するにそれは「お前たちの100%のやる気を見せてみろ。その感性とやらをここで存分に表現してみろ」という問いかけであり、そう言われると自己の存在意義を問われているも同じだから、クリエイターとして簡単には逃げ出せなくなってしまうのだ。

「はいはい、やります、やらせてください」と無邪気に手を挙げたが最後、中野の思う壺である。ある時、「自分で考えたバイクを自分で作るのが、ホンダにおけるゴールなんじゃないんですか?」というメンバーの問いかけに対して、中野はニヤリとしてこう答えたという。「人とか組織とかを創る楽しみを知っちゃったら、もう形なんてどうでも良いんだよ。お前ね、人いじりは面白いよ〜。やめられないね」
こうして中野耕二、すなわちNプロというヤバイ渦巻は若手エンジニアを巻き込んで、グルグルと回り始めたのである。

左が中野耕二。写真は2003年春、Solo発売時のときのもの。右はSolo開発責任者・フレーム設計の中井 慎、中央はSolo開発責任者代行・駆動系テストの陸井益史。

*Nプロ発足の経緯については一部以下参照/引用 
谷地弘安 ホンダ二輪「Nプロジェクト」─知識創造の「場」を徹底追究する─

レポート●関谷守正 写真●ホンダ/八重洲出版 編集●上野茂岐


第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子

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