チャレンジして失敗するよりも、
何もしないで失敗することを恐れろ
失敗を恐れて何もしない人間は最低なのである
序
ホンダは時に途方もないような数々の挑戦によって、成長してきたブランドである。それは、いわゆる技術との戦いや画期的な商品開発における作り手の格闘や苦悩に対するユーザーのシンパシー、あるいはその商品による新たな歓びの享受によって裏付けられてきた(少なくとも我々ユーザー側の立場ではそういう事になる)。
それを生む発想の原点は何なのか?
ホンダの物づくりの基本精神には、ホンダフィロソフィーとしてよく知られている『三つの喜び』(買う喜び、売る喜び、創る喜び)、『三現主義』(現場、現実、現物を重視する)があり、あるいは自他非分離(自分と他者を分離して考えず、相手の立場で思いと感覚を経験する)の思想がある事はよく知られている。
しかし、ご立派なお題目を大きく掲げたところで、実が伴っていなければそれはただの言葉遊びに過ぎない。問題はこれらのフィロソフィーや思想を実践・実現するために、どれだけ、どのようにして、物づくりというものに取り組んできたかという事実であり、(その成功、失敗に関わらず)そこから生まれた商品にそれを証明するだけの実存や革新性があるかどうかだ。
いわゆる「作り手の顔が見える」という商品とはそう言うものであり、その仕事が発生した事情がどうであろうとも「とにかくここまでやった。少なくとも他とは違う」という強烈な意志に貫かれた商品はユーザーにとって魅力的に見えるはずなのだ。
強烈な意志。
これこそがホンダのチャレンジの原点ではないのか。便利なのか、スゴイのか、面白いのか、その都度、夢や目標は変わるが、ユーザーの喜びを実現するという一点に突き進む。そのために誰もやらないような事をとことんやる。そのために精神と肉体を限界まで追い込む事も厭わない。
時代が変わろうと、社会が変わろうと、企業規模が変わろうと、そこにある物語は不変でなくてはならない。それが作り手にとっての醍醐味になると同時に、受け手に対する誠実さにもなるはずだ。
そして、ユーザーやメディアが喜ぶ「そういう物語」は、ともすれば大昔の開発風景やエピソードであったりする事が多い。時代を遡れば遡るほど多い。という事は、逆に時代が新しければ新しいほど、強烈な意志はその鋭さを失ってマイルドな意志になってしまい、「そういう物語」は生まれなくなったのか?
それは、ある程度時が流れ、現在(いま)を未来から俯瞰しない限り分からない。だが、少なくとも今から20年ほど前には「そういう物語」で貫かれた、破天荒と言ってもよいバイク作りがホンダで行われていたのだ。
ブランドを象徴するトップエンドモデルのカテゴリーでもないにも関わらず、そこでは非常にチャレンジングな開発が行われ、「予算はないから、頭と体を使って面白い物を作れ」という切羽詰まった状況、要するに無茶振りの世界があった。
これから語るのは、間違いなくホンダの「そういう物語」であり、まったく新しいバイクを創出するための 「心の在り方」を考える少し大人の話である。
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
2022年の現在、原付二種を核にしたレジャーバイクの市場はホンダの独占状態である。それは2021年にこのカテゴリーにおける競合モデルが存在しなくなった事もあって確固たるものとなったのだが、そもそもホンダには1961年のZ100・モンキーオート(1963年に市販されたCZ100・モンキーの原型)以来のレジャーバイクの歴史があり、それに裏付けられたブランド力と信頼性が人気の根本にある。
その60年の歴史を振り返ると、多くの場合はスーパーカブの前傾エンジン+8 or 10インチホイールがセオリーであり、時にはその枠にはまらないモデルも登場したが、基本はモンキーやダックスという定番モデルの潮流である。翻ればそれはスーパーカブのエンジンが持つ強烈なほどのオリジナリティと信頼性のなせる技だったはずだ。
ところが、それらとはまったく異なった出自を持つ独創的なモデル──つまり、まったく新しいコンセプトを与えられたモデル群が登場した時期があった。それも2001年から約4年の間に、それぞれ違うカタチの原付一種が4モデル、さらに250ccスクーターと試作モデルの計6モデルが開発されている。
この一連のモデル開発は『Nプロジェクト』と呼ばれ、その開発部隊はいわゆるバイクファンやベテランよりも普通の「若者」を幅広く対象とし、そこへ新しい価値を持った商品を継続的に送り出すという目的を持っていた。そして、技術面においての革新的チャレンジは御家芸であるものの、商品パッケージとしてはコンサバティブ(保守的)とも言えるホンダの商品群の中で、それらは異形であり異端であり、あるいは掟破りの内容だった。
ホンダ Nプロジェクトで生まれた6モデル(試作車含む)
HONDA Ape(50cc・2001年2月)

HONDA ZOOMER(50cc・2001年5月)

HONDA Bite(50cc・2002年1月)

HONDA Solo(50cc・2003年3月)

HONDA PS250(250cc・2004年4月)

HONDA NP-6(125cc・2005年10月東京モーターショー参考出展車)


これら一連の独創的・個性的モデルを誕生させたNプロジェクトの活動には、90年代の国内二輪マーケットの動向が大きく影響している。まずはそこを少々説明しないといけないだろう。
よく知られているように、HY戦争によるニューモデルラッシュとその後の経済好況もあって80年代前半に起きた空前のバイクブームは、同じように経済的動向を背景にして縮小していったと言ってもいい。1987年にはニューヨーク株式市場の大暴落が引き金となった世界同時株安(ブラックマンデー)が起きたこともあってか、国内市場における出荷台数は大きく落ち込んでいる。
翌1988年には1986年レベル近くまで持ち直したものの、1990年の日経平均株価急落(株価は約9ヵ月で1/2に。いわゆるバブル経済崩壊の始まり)、続く1991年の国内地価下落などを経て二輪市場は下降を続ける事になる。さらに1997年の消費税引き上げによって国内の消費全体が再度大きなダメージを受けてしまう。
1999年に出荷台数100万台を割った二輪市場は、21世紀を迎えようとする2000年には過去最高の330万台を記録した1982年の1/4以下に縮小してしまった。要するに90年代の国内二輪市場は「年々バイクが売れなくなっていく」という、日本の二輪メーカーがかつて経験した事のないような厳しい状況になったのだ。

ヤマハ マジェスティとTW200のヒットに対し、存在感を示せなかったホンダ
しかし、そんな状況でも売れる商品というものは生まれてくる。国内市場の大きな割合を占める250cc以下のセグメントでは、ヤマハの放ったスクーター・マジェスティ250が1996年に250ccクラスの登録台数トップを記録。
さらに1999年には自動二輪車全体における年間最多販売となる大ヒットモデルとなった事から、各社もそれを追う事になる(これが2000年代前半に起きたビッグスクーターブームの端緒となる)。
ホンダはというと、1984年にスペイシー250フリーウェイ、1986年にフュージョンを登場させて250ccスクーターの先鞭をつけていたものの、マジェスティのようなスポーティかつ高級なイメージはそこになく、ライバルにはなり得なかった。
慌てたホンダは1997年、マジェスティに対抗すべくフォーサイトを投入したのである。何しろ、全盛期の1/4という少ない市場を喰い合うのだから悠長な事は言っていられなかった。
ホンダにとっての屈辱はそれだけではない。同じ頃「スカチューン」と呼ばれたストリート系カスタムが流行。これによってヤマハTW200(1987年発売)が大人気となり、それに引きずられる形でSR400(1978年発売)までが売れ始めていたのだ。
しかも、2000年のTVドラマの中で、当時人気絶頂だったアイドル演じる主人公がスカチューンのTW200に乗っていた事で、その人気は確固たるものとなった。また、このブームは偶発的なものではなく、その背景には90年代半ばからのカスタムショップとヤマハによる「仕掛け」があったのだ。
このようにして若者のバイクに対する認知が変容・拡大し、同時にヤマハにとっては10年前、20年前に作ったモデルが売れていくという、信じられないような状況が展開していたのである。
対してホンダは、1989年まで販売していたFTR250のスタイリングを使ったFTR(223cc)を2000年に投入し、「フラットトラッカーが持つスタイルと走破性を現代のストリートに合わせ蘇らせる」「TW200の市場を奪う」事を命題に、カスタムベースとしての使い方を念頭に置いてヒットを飛ばすことができた。
そもそも1987年に送り出したFTR250は「公道走行可能なフラットトラック・レーシングマシン」として開発されたもので、マニア以外には関心を持たれなかったため1989年に販売を終了したモデルだった。それが、スカチューンを核とするストリート系カスタムの人気によって、FTR250の中古車が人気になるという皮肉な現象が起きていた。
これは、その後のビッグスクーターブームによってフュージョンの中古車が暴騰したのとまったく同じ、作り手であるホンダが開発当初、意図しなかった使い方、予想しなかったムーブメントによる人気再燃という現象だった。
要するにホンダは、20世紀末に(比較的手軽な250ccクラスの)バイクがストリートカルチャーへシフトする事を見逃していたのだ。その根底には、ホンダが若者カルチャーの動向に疎かったため、若者が興味・関心を持つ商品を作れなかった事が原因としてあげられるはずである。
ホンダを弁護すれば、それは実直な物作りを続けてきた裏返しであるとも言える。だが、その結果、ホンダは市場の中でかつてのようなプレゼンスを失い、その動向に対して後手、後手の対応をせざる得ない状況になったのではないか。
HONDA FUSION(250cc・1986年登場)

YAMAHA MAJESTY250(250cc・1995年登場)

YAMAHA TW200(200cc・1987年登場)

HONDA FTR(223cc・2000年登場)

ちなみに、本流のスポーツバイクでは1992年に登場したCB1000スーパーフォアが大人気となり、その進化・拡大版である1997年のCB1300スーパーフォアは大型クラスの定番モデルとなり、これらのセグメントではホンダの存在感は大きなものとなっていたのも事実だ。あるいは1000と同時期に登場したCB400スーパーフォアもまた然りである。
しかし、総販売台数の大きな割合を占めていた250cc以下では、スクーターといい、若者に支持されるストリート系モデルといい、完全にヤマハに(というよりも時代そのものに)先行されており、この分野での販売を強化する事が極めて重要な課題となっていたというわけである。そこには、もうひとつ切実な問題があった。
いわゆる「若者のバイク離れ」というものがこの頃に顕在化していたのだ。80年代前半から2000年頃までの年齢別購入台数を見ると、その絶対数が減少する中でも30代以上のボリュームゾーンはほぼ変化がないものの(むしろ数としては90年代終盤には微増)、20代以下のボリュームゾーンは明らかに縮小傾向にあったのである。
このように時代の要求というべき市場の変容によって、性能や技術を主体としたバイク開発の王道路線とは別に、若者カルチャーを反映するようなバイクの在り方を考える事、そしてバイクに乗る若者を取り戻す事がホンダの急務となったのだ。
正確に言えば、経済動向の劇的な変化によって市場を取り巻く環境が大きく変化しつつあった時代に、(要するにその時代の若者を知らないという)一種の視野狭窄に陥っていたホンダの開発視点に気が付き、それを深刻な問題として受け止める意識を持った人材が、社内での問題提起とその打開策を考え始めたと言う事だった。


レポート●関谷守正 写真●ホンダ/八重洲出版 編集●上野茂岐
以降シリーズ予定
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子
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