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日本楽器から分離独立し、ヤマハ発動機が誕生
7月1日はヤマハ発動機の創立記念日です。
日本楽器製造(現ヤマハ)からモーターサイクル製造部門が分離独立し、ヤマハ発動機が設立されたのが1955年7月1日。
2021年は66回目の記念日にあたります。ちなみにこの日はお笑い怪獣こと明石家さんまさんの誕生日でもあり、さんまさんとヤマハ発動機は同い年なんですね。このほか7月1日生まれのみなさま、おめでとうございます。
ヤマハ発動機の社名は、日本楽器製造の創業者・山葉寅楠(やまはとらくす)さんに由来しています。
1887年、それまで時計や医療機器の修理を生業にしていた氏がアメリカ製オルガンの修理をきっかけに、自らオルガン製造に進出。山葉風琴製造所を経て、1897年10月12日に日本楽器製造が設立されました。
ちなみに7月1日、10月12日という、ふたつのヤマハの創業記念日はヤマハデーと名付けられています。
ではなぜ楽器製造メーカーがバイクを造ることになったのでしょう?
それは1921年、オルガン、ピアノで培った木工加工技術に着目した日本陸軍が木製プロペラの製造を依頼したことがきっかけになっています。マホガニーやくるみの木材を接着剤で重ね、その後複雑な形状に仕上げていく工程は木工職人の腕の見せ所でした。
その後、時代は金属プロペラへと移り、可変ピッチなど複雑化していきますが、このときの技術蓄積がその後のバイク製造に役立ったと言われています。
ヤマハのバイク第1号は1955年発売の「YA-1」
1945年終戦。楽器の製造機械は浜松大空襲などにより被災しましたが、プロペラの工作機械は生き残り、占領軍管理化(賠償指定下)に置かれます。
戦後は楽器の修理や木製の丸いちゃぶ台、復興住宅の製造などを行なっていた日本楽器ですが、ピアノの生産も再開されたころの1950年、プロペラの工作機械が平和利用限定を条件にGHQから返還されます。
とはいえ、このときの日本楽器には使い道のない機械。これらを活用して何か作れないか?ということを模索した結果、1953年、川上源一社長の命によりバイクの研究、試作車の作成が始まっていきました。
その後各社への視察などを経て、手本とする車両をDKW RT125に決定。
ちなみにこのモデルはドイツの自動車メーカー・アウトウニオン(今のアウディ)が戦前から作っていたバイクですが、戦後連合国側によってライセンスフリーとされていて、もっともコピーが造られたバイクとも言われています。
1954年3月に始まった1号機の開発は2ヵ月後には試作車が完成、その年の夏には1万km以上の実走テストを経て、10月には型式認定を取得してしまったのですから、とんでもないハイペースで物事が進んでいったことがうかがえます。
1号車の名称は「ヤマハ125」、型式名「YA-1」とされました。
1955年2月に販売が開始され、その年の7月1日、ヤマハ発動機が誕生するのです。会社よりも先にバイクが生まれ、すでに売られていたのはとても興味深い話ですね。
ヤマハの歴史に輝くモデル
YA-1こと「ヤマハ125」(1955年)発売当時価格:13万8000円
型式名「YA-1」のほうが今では通りがいい車両ですね。
初期は日本楽器株式会社からの販売で、実際に楽器店で買うことができました。型式のYはヤマハ、Aは125cc、1は1号機を意味しています。機械としての優秀さとともにYA-1で話題になるのがデザインやカラーリングです。
現在までヤマハ車のデザインを担当するGK(GKインダストリアルデザイン研究所の設立は1957年)がかかわっています。
当時、バイクは黒いものばかりだったそうですが、GKとしては色で新しい感覚を出したかったのだとか。このころ若い女性の好物に「中にクリームが入ったチョコレート」があって、その明治チョコレートのパッケージの色がGKのイメージに一番近かったため、これを採用しようということになったそうです。
クロスプレーンのM1に初めて乗ったバレンティーノ・ロッシみたいに「スイート」って言いたくなりますね。
車体全体の基調は赤味を帯びたチョコレート色に、タンクはクリーム色のツートーンに仕上げられています。このカラーリングはもちろん市場に受け入れられ「赤トンボ」の愛称が広まっていきました。
発売時価格は13万8000円。物価指数を基にこの金額を今に直すと85万円くらいになります。1957年の生産終了まで約1万1000台が造られました。
「RZ250」(1980年)発売当時価格:35万4000円
70年代、大気汚染をきっかけに北米では排ガス規制が始まり、さらにオイルショック(中東各国の原油価格引き上げにより世界経済が混乱したこと)などが重なり、燃費の悪い2サイクルエンジン搭載車は販売台数などの面で風前の灯でした。
創業以来、2サイクルエンジンの可能性を追求し続けてきたヤマハはそれまで培ったノウハウを集結させ集大成的なモデルを企画します。それが「最後の2ストロークスポーツ」として造られたRZ250でした。
公道を走れるTZ(ヤマハ市販レーサーの名称)とも称された圧倒的なスポーツ性能はもちろん周知ですが、初採用となったオーゴソナルマウントにも注目です(オーゴソナルは直交の意で、エンジンの重心を通る一直線上の前後にマウントを配置し、大型ラバーブッシュを介してエンジンをフレームに搭載する方法)。これにより、それまでの2サイクル車と比較して高回転域での振動が格段に減りました。
高速走行を続けると「休憩時に手がシビレて箸も持てない」なんて言われていた2サイクル車でしたが、RZ250の開発陣は「サービスエリアですぐにソバが食べられるバイクを目指そう」ということからこのマウント方式が採用されたそうです。実は快適性にも気が配られていたモデルだったんですね。
過去の「ヤマハ◯◯周年カラーモデル」も振り返っちゃいます
SR400 50th Anniversary Special Edition(2005年)発売当時価格:54万6000円
名称の通り創立50周年を記念した限定500台の特別モデル。
カラーはヤマハブラックで、1978年の最初期型グラフィックを再現したもの。当時の標準モデルに対して、メーターの文字盤やブレーキキャリパーなどが黒に変更されていたり、クランクケースやフロントフォークアウターチューブが念入りにバフ掛け処理されるなど高級感漂う作りになっていました。
SRのほか、海外向けモデルのYZF-R1の2006年型に創立50周年記念色がありました。カラーリングはいわゆるスピードブロックをあしらったレディッシュイエローカクテル1で、このカラーは60周年記念の各車に引き継がれます。
XSR900 60th Anniversary 2016年 発売当時価格:107万4600円
こちらは60周年記念カラー車です。
2015年はBOLT Cスペック、SR400、マジェスティS、(2016年2月、少し遅れてXSR900にも追加設定)などに記念モデルが設定されました。
各車に共通するのは黄色地に黒が描かれる通称「スピードブロック」のグラフィックを採用していることです。
70~80年代の北米レースに参戦するヤマハのマシンに描かれていたグラフィックで、USインターカラーとかストロボカラーとも呼ばれていましたね。
筆者は1984年のデイトナ200で勝利した際の黄色いYZR700(0W69)とケニー・ロバーツの勇姿が印象に残っています。
ちなみに生産終了から市場価格が高騰してるSR400ですが、この記念モデルの価格は3桁万円のプライスがつくものも出てきています。
せっかく66周年なので「66」がキーワードとなるモデルも
XV250ビラーゴ(1988年)、SRV250(1992年)、ルネッサ(1997年)、ドラッグスター250(2000年)……挟角60度の空冷Vツインという同系エンジンを積むこの4台、何が「66」なのかというと、ボア・ストロークは49×66mm。
ええ、ストロークが66mmなのです!(すみません、ちょっと強引!?)。
ビラーゴは1988年に発売された750、400に続くシリーズ第3弾で、排ガス規制の厳しい現代ではもう造られることのないだろう造形の美しい空冷Vツインエンジンを搭載していたモデルです。
このエンジンは給排気系などの変更を受けながら、トラディショナルVツインとしてデビューしたSRVや、カフェレーサーイメージをまとったルネッサ、ロー&ロングのイメージのドラッグスター250に引き継がれていきます。
webコンテンツも豊富なヤマハ、今年も誕生日記念の読み物があるかも
ヤマハ発動機公式ツイッターアカウントでは昨年(2020年)7月1日に社長コメントとともにYA-1を紹介していましたが、このとき掲載された写真は北海道でレストアされたYA-1でした。
これはヤマハの企業サイトで「お父さんのYA-1」と紹介されたものでした。
このほかヤマハは ダートバイクに焦点をあてた「オフロードマニア」というサイトや、バイク雑誌にしばしば登場するワード「ハンドリングのヤマハ」というテーマの動画など様々なコンテンツをオウンメディアで発信しています。
なかなか自由に出かけられない昨今ですが、おうちでヤマハデーを楽しんでみてはいかがでしょうか?
最後に、ヤマハ発動機の社員食堂では7月1日は創立記念特別メニューが用意されるそうです。
毎年メニューは変わるらしいのですが、ハンバーグが大きくなるとか、エビフライの数が普段より増えるんでしょうか?
2021年の特別メニューの詳細がわかる方、ご連絡をお待ちしています。
レポート●飯田康博 写真●ヤマハ/八重洲出版 編集●上野茂岐