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ヤマハワークス500の歴史
エディ・ローソンが15歳の少年だったころ、最初のYZR500、0W20がGPシーンに表れた。それから14年間。時が移り、人が変わるなかで、0W自身も絶え間なく進化してきた。そしてグランプリの歴史のひとコマ、ひとコマを演じ続けながら、0Wは0Wそのものの歴史を形創ってきた。波乱に満ちた歴史、しかし名誉ある、誇り高き歴史を……。
*本記事はモーターサイクリスト1986年12月号の記事を抜粋・編集して掲載しています
イタリアの名門・MVアグスタの壁に挑む
日本製ワークスマシンが表彰台を独占し、当然のようにチャンピオンをさらって行くようになった世界GP500ccクラス。
しかし、ヤマハが初めてこのクラスに挑戦したころは、イタリアのMVアグスタが全盛だった。MVアグスタは1958年から1974年まで、17年連続チャンピオンマシンに輝いたのを含め、合計18回のタイトル、通算139勝という偉大な記録を残している。
日本のメーカーでMVアグスタの壁に挑んだのはホンダ4サイクルが最初で、1966年にはメーカータイトルを獲得、牙城の一角を崩している。2サイクルの挑戦はヤマハ以前にスズキTR500、カワサキH1Rが試みており、それぞれ1971年に1勝していた。
そして1973年。すでに250、350で実力をつけていたヤマハが発表したのが初代YZR500、「0W20」であった。 以後14年間、GPの歴史にその名を刻み続けてきた、開発コード「0Wナンバー」で呼ばれる2サイクル水冷4気筒マシン。その最初の型である。
ちなみに0Wの後につく2ケタの数字は、500以外のロードレーサーやモトクロッサーも含めての通し番号であり、そのために「飛び番」になっている。また、今は「オーダブリュ」と読む人が多いが、もともとは「ゼロダブリュ」だったそうだ。
MVアグスタやスズキと激闘を繰り広げた並列4気筒時代
0Wの14年間は、大ざっぱに言って3つの時代に分かれる。
最初はデビューした1973年から1980年までの、並列4気筒の時代。
次に1981、1982年の、スクエア4とV4エンジンにトライした時代。
そして1983年以降の、V4と極太アルミフレームを熟成した時代だ。
第一の時代は、ライバルMVアグスタを下しながら、続くスズキRG勢の台頭に苦しめられ、並列4気筒の可能性を極限まで追求してそれに対抗した時代とも言える。
1973年YZR500【0W20】
0W20のデビューは華々しいものだった。
1973年第1戦・フランスGPでヤーノ・サーリネンがいきなり優勝、金谷が3位。第2戦オーストリアではサーリネン、金谷秀夫がワンツーを演じる。
ところが第4戦イタリアGPがヤマハを打ちのめした。サーリネンが250クラスで路面のオイルのため転倒、死亡するという事故が起きたのだ。ヤマハはこの年、以後のGPをキャンセル。余りに激しい明暗が前後を分けたデビューの年となった。
1974年、0W20のライダーとしてMVアグスタのエース、ジャコモ・アゴスチーニを迎えた。
そして翌1975年、アゴスチーニは0W20に初の栄冠をもたらすことになるのだ。
1974年YZR500【0W20】
1974年YZR500【0W23】
70年代後半、オイルショックによる撤退とスズキの躍進
しかし再び不運が0Wを襲う。
1976年、オイルショックのためヤマハがワークス活動停止、この間に2サイクルスクエア4・ロータリーバルブのスズキRG500がバリー・シーンの手でタイトルを奪ったのだ。
翌1977年も、バリーとRGは連続タイトルを得たのである。
1977年YZR500 【0W35】
YPVSとアルミフレームの投入
もともと0Wは、ひとつの制約を背負って生まれていた。
それはヤマハ上層部の絶対的な指示、「量産車と無縁のメカニズムでレーサーを作ってはならない」という制約だった。
4サイクルのMVアグスタを相手にしているうちはともかく、最新鋭のスズキRGが敵となったとき、この制約は0Wにとって余りに重かった。
ピストンリード吸入の並列エンジンを商品の柱にしていた当時のヤマハにとって、ロータリーバルブやスクエア4というメカは採用できなかったのだ。
開発チームは、従来のレイアウトでタイトルを奪い返すべく、並列エンジンの可能性をとことん追求した。
その結果生まれたのが、排気バルブシステムYPVS(1978年後半から)であり、軽量化のためのアルミフレーム(1980年から)であった。
その努力を完全に結果に結びつけてくれたのが、ケニー・ロバーツである。1978年、初めてGPに挑んだケニーはアメリカ人初のチャンピオンとなり、以後1979、1980年と3年連続で栄冠を手にするのである。
1978年YZR500【0W35K】
1979年YZR500【0W45】
1980年YZR500【0W48/0W48R】
しかし年々、ケニーと0Wの戦いは苦しくなっていた。
この3年間もメーカータイトルはスズキであったことからわかるように、RGはGPで圧倒的な勢力となっていたのだ。
1978年YZR750【0W31】
ちなみにこちらは、F750世界選手権、デイトナ200用に作られたファクトリーマシン、YZR750のストリップモデル。
1976年から1978年まで投入された「0W31」である。
1975年にF750へ投入されたYZR750(0W29)のエンジンとYZR500(0W23)をベースに開発されたYZR500の兄弟車だ。 1番シリンダーのチャンバーの取りまわしに注目、取りまわし方法はYZR500と同様なのだ。
80年代、スクエア4とV4を搭載した「0W」
ケニー・ロバーツの活躍により3連覇を成し遂げたヤマハであるが、スズキRG軍団との戦いは、この先さらに激しさを増すことが予想された。
そんなとき「制約」が外された。
スクエア4とV4の設計図にGOサインが出されたのだ。たったひとつの、しかし絶対的な制約から解き放たれ、0Wは奔放な進化を開始したのである。
最初に姿を現わしたのはスクエア4だった。
1981年の0W54である。続く1982年にはV4の0W61。しかし、この2年間は新しいトライが形になるための準備の時期でもあった。
1981年YZR500【0W54】
1982年YZR500【0W60】
1982年YZR500【0W61】
1983年、それ以後の基本路線「V4+極太アルミバックボーンタイプフレーム」を明確に打ち出した0W70が登場した。
1982年から2サイクルでGP参戦し、急速に力をつけてきたホンダのフレディ・スペンサーと死闘を演じたマシンである。
1983年YZR500【0W70】
この0W70で、ヤマハは以後の発展の方向性をしっかりとつかむ。そればかりか、極太のアルミバックボーンタイプのフレームでエンジンを抱え込むという構成は、他メーカーのレーサーもこぞって追随する、ひとつの理想的な形となったのだった。
それ以後の0Wの活躍は続き、世界GPで1984年、1986年とチャンピオンを獲得。国内でも1983〜1985年、3年連続タイトルに輝いている。
1984年YZR500【0W76】
1985年YZR500【0W81】
1986年YZR500【0W81】
レポート&写真●八重洲出版『モーターサイクリスト』 編集●上野茂岐