60年の時を経てカワサキが復活させたブランド「メグロ」だが、実は、カワサキとは別の企業の名に由来している。
「メグロ」とは目黒製作所というメーカーが作ったバイクの名であり、目黒製作所は大正時代に誕生し、戦前から戦後直後において陸王と並ぶ「国産大型二輪車の名門」だった。
二輪車という存在自体が極めて珍しいものだった時代に、目黒製作所はどのようにして大型二輪車の開発・製造に着手したのか。その原点を紹介する。
目黒製作所創業者のひとり、村田延治は大正時代に「国産ハーレーの開発」に携わっていた
ハーレーダビッドソンの輸入が始まった大正時代。軍用車としての需要も踏まえ、「国産ハーレー」の誕生を目指す動きが国内で高まった。
当時、輸入を行っていたハーレーダビッドソンモーターサイクル株式会社の親会社である三共(現・第一三共)が陸軍と相談し形になったのが有名な「陸王」だが、「ハーレーの国産化」を目指したのは彼らだけではなかった。
1922年(大正11年)に、東京・赤坂の勝 精(かつ くわし)伯爵の屋敷内で、渋沢栄一などの援助を受けた村田鉄工所がハーレーを模した1200ccVツインのバイク「ヂャイアント号」を3台完成させていたのだった。
しかし、当時のハーレーの価格が1台1400円だったのに対し、ヂャイアント号の製造コストは1台4000円と高価になり、量産計画は水泡に帰してしまう。
1924年(大正13年)8月、村田鉄工所の社長だった村田延治は勝伯爵の屋敷内にあった自らの鉄工所を閉鎖するにあたり、友人の鈴木高治に東京市大崎区目黒村(現・品川区桐ヶ谷)に鈴木鉄工所を立ち上げさせた。
その後、村田は勝家を離れて鈴木と合流し「目黒製作所」を設立する。
信頼性の高さから「目黒のミッション」と名を馳せ、自社製エンジンの開発へ
新たに工場を立ち上げたとはいっても、そこは4軒長屋の1軒にすぎなかった。だが幸いなことに丸石商会がトライアンフを日本で一部組立てていたため、目黒製作所は補修用ミッションの製作を開始。
事業は順調に進み、折からの3輪トラックブームもあり、エンジン製作の注文も舞い込むようになった。
ミッションは英国製のバーマンなどを参考にし、エンジンはスイスのモトサコシが搭載していたMAGを参考にした。
エンジンは500cc、600cc、650ccの空冷OHVシングルと水冷のOHV750ccVツインがあり、ヂャイアント号での経験が生かされた。
さらに自動車用には水冷V4も手がけるなど、目黒製作所の技術レベルは極めて高いものであった。
自社製エンジンの完成を機に、目黒製作所は二輪車の完成車製造へと一歩を踏み出していく。
「オートレース」に出場し、まずそのレベルを試すことにした。1934年(昭和9年)の井の頭公園でのレースでは2位になり、翌年からも井の頭や多摩川スピードウェイなどで勝利を重ねていく。
1937年、初の市販車500ccOHV単気筒「メグロ Z97型」を世に送り出す
自信もつき世の中の評価も高まったため、1937年(昭和12年)に念願の完成車「メグロ号 Z97型」を作り上げる。車名の「Z」は日本海軍で奮励を意味する「Z旗」、「97」は1937年が皇紀2597年だったことに由来する。
Z97型は、マン島TTレーサーの多田健三から提供されたヴェロセットKSSを参考とした車体に、デチューンしたオートレース用500ccエンジンを組み合わせた構成で、目黒製作所の「メグロ」はスタイリッシュで高性能なマシンとしてデビューを飾ったのである。
1939年(昭和14年)には陸王に続き白バイに10台のみだが登用され、官需にも応える大型二輪車メーカーとなっていく。
戦時中は軍関係の航空機部品、舟艇用エンジンを製作するかたわら、工作機械の疎開先として栃木県・烏山町に1943年(昭和18年)に工場を建設し、翌年から稼動を開始している。
戦後はZ97、Z98をベースとする「メグロZ」の生産から始める
第二次世界大戦の混乱を経て、目黒製作所が再び二輪車の生産を再開したのは1948年(昭和23年)のこと。
烏山の工場から東京・目黒に工作機械を戻し、戦前のZ97、Z98をベースに排気系を新設計とした「メグロZ」や、メグロZにハーレーダビッドソンタイプのサイドカーを取り付けた(カーの設計も目黒製作所が行った)車両の生産から再スタートを切るのである。
原文●小関和夫(当記事は八重洲出版『日本モーターサイクル史1945→2007』の記事を編集・抜粋したものです)
写真●八重洲出版 編集●上野茂岐