ヒストリー

61年前の大健闘 ホンダがマン島TT初挑戦で崩した“世界の壁”

世界でもっとも伝統あるレースイベントである「マン島TT」が、新型コロナウイルス感染症の影響で中止になった。本来であれば5月31日より開催されるはずだったが、世界各地から観戦者が訪れるレースだけに中止以外の選択肢はなかっただろう。

とはいえ、伝統あるレースが見られないのは寂しい限り。そこで今回は、今から61年前にホンダが日本の二輪車メーカーとして初めてマン島TTへ挑戦し、輝かしい成績を収めた偉業について振り返ってみよう。

※本記事は1973発行の「日本のレーシング・モーターサイクルの歴史」の記事に加筆・修正を加えて掲載しています。

 

「世界の頂点」を目指したホンダ

1953年に行われた全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード(名古屋TTレース)。国内にサーキットは存在しないため、コースはもちろん一般道。コースは非舗装路もあり、参戦車両の転倒やフレーム折損などのトラブルが続出したという。

ホンダがマン島TTの出場宣言を行ったのは1954年のこと。当時の日本では名古屋TTレース(1953年)や富士登山オートレース(1953〜56年)、第1回浅間高原レース(1955年)が開催され、ようやく国内二輪車レースが黎明期を迎えたという時期だった。
しかしホンダはマン島TT出場宣言からもわかるように、そのころにはすでに世界レース挑戦への意欲をのぞかせておリ、1954年には本田宗一郎社長自らマン島TTの偵察旅行をするなど具体的な動きを見せていた。

1954年秋のブラジル・インテルラゴス国際レースに大村美樹雄選手を125ccマシンと共に送りこみ、また1956年には「マン島TT挑戦用マシン」を公表し、ホンダはマン島TT参戦準備を着々と進めていた。

今では国内メーカーや日本人が海外レースに参戦するがごく当たり前に行われているが、当時の状況を考えればホンダの社運をかけた大博打だったといっても過言ではない。

マン島TTに参戦するにあたり、必要な予備知識は派遣した偵察部隊が仕入れてきていたが、得られる情報には限界があった。
さらにマシンとなると、その目標はまるで雲を掴むようなものだった。とにかく、すべてがゼロに等しい状態から、遠征計画はスタートしたのだ。

 

限られた時間でマシンを開発

カウルの風洞テストとポジション決定する試験の様子。世界挑戦はこうして始まった。

TTマシン開発にあたって、ホンダはまず目標となる性能を知るために、一流グランプリ・レーサーの入手をはかり、イタリアの名門メーカーであるモンディアルが放出した前年型マシンを苦労の末入手。さっそく徹底的にテストし、自社マシンとの比較を行ったが、「他社のマシンはパワーが2倍以上出ている。とてもじゃないが……」というのが、当時の状況だったという。
ホンダが”TTマシン”と称して公表した試作車(エンジンはE型を改造)の出力はせいぜい7馬力であるのに対し、比較車両のモンディアルは17馬力以上をすでにマークしていたのだ。

ホンダは参考車両としてモンディアルを購入。

まるで比較にならない差をどこまでつめられるか。限られた時間の中で、開発を担当した研究2課グランプリ遠征スタッフは全力をあげてマシンの開発に没頭した。

マシン開発を進めるため、1958年に急造された荒川のテストコースしかし、直線のみのコースであった。

昼夜を問わない開発の結果、完成したマン島TT挑戦用マシン“RC141”が公開されたのは1959年春のこと。
流麗なラインのアルミ製カウリングに隠されたシャフト・ベベルギヤ駆動のDOHC4バルブ2気筒エンジンは1万3000回転で18馬力(公称)を発揮するまでに進化を遂げていたのであった。

 

絶望的なまでの世界との差

完成したマシンとともに、レース開催の1ヶ月前より現地入りして準備を行うグランプリ遠征スタッフたち。
しかし……。少なくともパワーではそう劣らないのではという予測は、実際にマン島へ乗り込んでみて甘いことに気づいたのである。
なぜならマン島TT常勝メーカーであるMVアグスタやMZなどは、このときすでに最高出力20馬力を大幅に超えていたからだ。

ホテルの部屋にエンジンを持ち帰り整備を続けるメカニック。裸でエンジンを覗き込むのは’64年から’67年までチーム監督を務めた秋鹿方彦.

それにもまして誤算だったのは車体の完成度の差だった。パワーがあっても、フレームや足まわりがそれにともなわなければラップタイムは上がらないという事実に気づいたが、手をうつにはすでに遅すぎた。17.364kmのクリプス・コースのラップタイムは、トップクラスの8分40秒台に対して9分22秒2(谷口 尚己)という大差があった。

コースをよく知る為にマン島コースをCB150で走り、その高低差を研究した。写真は谷口尚己、クリプスコース・モーニイI地点にて。

これで戦えるのだろうか……。そんな不安に押しつぶされそうになりながら、自身ができる最大限の仕事をこなしていくスタッフたち。果てしなく遠くにある強豪メーカーの背中に追いつくためには、前に進むしかなかったのである。

 

すべての不安を払拭する大健闘
ホンダ・マン島TT初出場で「チーム賞」を獲得!

谷口尚己はマン島のコーナーラインをつかむのに苦労したが、見事6位入賞を成し遂げた。

しかし、1969年6月3日水曜日午後1時に始まったマン島TT・125ccクラスのレースでホンダ・チームは大健闘して見せた。
すべてのマシンの完走を目標とした作戦が見事に成功し、6位谷口以下、7位鈴木義一、8位田中禎助(たなか ていすけ)、そしてブレーキ・トラブルで5分間タイム・ロスをした鈴木淳三(すずき じゅんぞう)が11位。谷口が銀レプリカ、残る3人は銅レプリカを獲得し、「メーカーチーム賞」を併せて獲得するという、予想以上の成績をあげたのであった。

左より7位鈴木義一、11位鈴木淳三、6位谷口尚己(たにぐち なおみ)、8位田中禎助でメーカーチーム賞を獲得した。

巨大な特製コンテナに膨大な物資を積みこみ、レース1ヶ月以上も前からマン島に乗り込んだホンダ・チームは、パイオニアの前に待ちうけているすべての苦しみを味わわなければならなかった。
マシンに関するあらゆるノウハウの不足、対日感情問題、はては国際電話の要領よいかけかたまで……。
はかり知れない苦労を他メーカーに先んじて自ら体験したことが、ホンダを世界一のバイクメーカーに押し上げる原動力になったことはいうまでもないだろう。

ホンダはその後、1960年からマン島TTを含めた世界グランプリに挑戦し、二輪車レース界にホンダ旋風を巻き起こしていくことになるのである。

まとめ●モーサイ編集部 写真●八重洲出版『日本のレーシング・モーターサイクルの歴史』より

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