列強に追いつき追い越せと富国強兵にいそしんだ昭和の戦前のバイクは、庶民に手が出せる代物ではなかった。しかし第二次世界大戦が終わり、模倣車や小排気量モデルで始まったリスタートから、世界一のバイク立国への道が開けていった……。
バイクが特権階級向けの高額商品だった戦前期
昭和元年(1926年)から平成元年まで64年に及ぶ日本でのモーターサイクルの足取りを見ると、昭和初期の華族や富豪など一部特権階級のための高額な趣味商品の存在から、あの太平洋戦争の惨禍を挟み、誰もが手軽に入手でき楽しめる安価で高品質な国産大衆二輪製品へと、劇的な変貌を遂げたと時代と言えよう。
それは明治、大正から続いてきたハーレー、インディアン、トライアンフなど海外輸入二輪車依存の体質から、純国産二輪車製造業に移行する日本の技術革新史とも重なる。
だが日本での量産二輪の製造は、昭和初期になってミヤタのアサヒ号や、ハーレーを国産化した陸王などに代表される各社によってようやく見られた程度であった。だが、それは産業と呼べるほどの規模に遠く及ばぬ規模であった。
ところが昭和20年以降の戦後荒廃の中で、簡便な交通手段として全国に勃興した日本の二輪産業は急成長する。
その製造業者は一時200社近くに及んだとされるが、大量生産の進展と本格的なモーターサイクルレースが開始されると企業間の熾烈な淘汰が加速し、ついに世界制覇を果たしたときには日本二輪産業で生き残ったのは4社のみだった。
その後ビッグ4の昭和新時代をけん引したのは、大衆車の決定版として君臨するホンダ スーパーカブC100(昭和33年発売)。加えて世界のスポーツモーターサイクル界の革新の扉を開いたホンダCB750フォア(昭和44年登場)と、カワサキ 900スーパー4(昭和47年登場)がトップに挙げられよう。そして時代は百花繚乱の昭和バイクブームへと突入していくのである。
昭和11年に誕生した純国産車 「陸王」第1号車(1936年)
戦争前夜という複雑な背景もあり、米国の部品を多用する“国産ハーレーダビッドソン”という車両が作られた後、純国産車として登場したのが陸王。その第1号車は28馬力で最高速97km/hを誇る高性能を発揮
国産スクーター第1号 富士工業・ラビットS1(1946年)
富士工業(現スバル)が米国製スクーターを範として、敗戦後1年足らずで完成させたのがラビットS1。タイヤは3.50-5サイズという小ささ。写真の女性は女優の高峰秀子。
世界のホンダはここから始まった ホンダ初のエンジン(1946年)
戦後の放出品、携帯無線機の発電用エンジンを自転車用の補助動力として転用したことから今日のホンダの歴史はスタート。この後、ホンダオリジナルのA型を47年に発売。
ラビットと双璧をなした国産ブランド 中日本重工業・シルバーピジョンC10(1947年)
富士工業のルーツが戦闘機「隼」の中島飛行機なら、中日本重工業は「零戦」の三菱重工業が前身。こちらも米国スクーターを元に開発され便利な移動手段として人気に。112cc2ストは1.5馬力を発揮
時代の波に飲み込まれた実力派 丸正自動車工業・ライラックML(1950年)
本田宗一郎の元で腕を磨いた伊藤 正が創業したのがライラック。MLは第1号モデルで、チャンネルフレームに排気量147ccのOHV単気筒を載せ、シャフトドライブを採用。
戦前から続く名門 目黒製作所・メグロZ(1950年)
メグロは1924年創業。戦後、Z97型の排気系を変更して売り始めたのがこの「Z」。97は発売時の皇紀に由来していたが、戦後は使えなくなったため単にZとされた。
スズキ初の二輪車第1号 鈴木式織機・パワーフリーE1(1952年)
織機機械メーカーだったスズキが送り出した補助エンジン付き自転車。強制空冷式2ストエンジンの排気量は36cc。伝達ロスを防ぐダブルスプロケットホイールや2段変速の採用などで人気を集めた
カワサキの名を冠した初のモデル 川崎岐阜製作所・カワサキバイクスクーター(1954年)
東京・日比谷公園で開催された、第1回全日本自動車ショウでデビューした、排気量60ccのスクーター。フロントタイヤ径は19インチ、最高速は45km/hを誇った。
ヤマハの第1号車 ヤマハ発動機・YA1(1955年)
123cc2ストエンジン搭載のヤマハの第一号車で栗茶色のスリムな車体から赤とんぼの愛称が付いた。55年の富士登山、浅間火山レースで上位を独占し、脚光を浴びた。
BMWを完全コピー 大東製機 DSK A50(1955年)
自動靴下編み機メーカーだった大東製機は、54年にBMWの単気筒モデルのコピー車「A25」を、55年にR51/3のコピー「A50」を発売。愛称はデンスケ、最高速は140km/h。