ホンダ・CB750フォアが東京モーターショーで発表されたのは1968年のこと。この年はCB750フォアの公開だけでなく、海外で日本製大排気量車が登場し注目を集めるなど、勢いに乗った時代だった。
1968年の出来事

●アメリカンニューシネマの代表作として知られる”卒業”は、ダスティン・ホフマン演じる主人公が、大学卒業後に将来と恋愛で大いに悩む姿を描いた青春映画。サイモン&ガーファンクルが歌った、主題歌の”サウンド・オブ・サイレンス”も大ヒット

●コスモスポーツに次ぐ第2のRE車として、マツダは’68年にファミリアロータリークーペを発売。491㏄×2ローターのエンジンは、当時の2ℓクラスに匹敵する100psを発揮。なお兄弟車の1.2ℓレシプロエンジン車は68psだった

●’65〜67年に何度か試作車が公開され、’68年から本格的な生産が始まったディノ206GTは、’47年の創業以来、V12エンジンのFR車を主軸として来たフェラーリが、初めて手がけたV6ミッドシップモデル。初代の最高出力は185ps
※本記事は旧車二輪専門誌 モーターサイクリストCLASSIC2019年6月号に掲載されているものを再編集しています。
TOPIC 1 スクランブラーとは異なる、本格的トレールバイク
北米市場からの要求を受けて開発され、’68年に発売された250DT1は、日本製トレールバイクの基盤を作ったモデル。
既存のスクランブラーがオンロード車の派生機種だったのに対して、DT1はほぼすべての部品を専用設計し、悪路走破性を徹底追及。モトクロスやエンデューロといった競技で大活躍する一方で、ツーリングにも対応できる柔軟さが評価され、世界中で大ヒットモデルとなった。
目玉マークのヘルメットのライダーは著名な鈴木忠男。
TOPIC 2 旧態然とした構造を捨て切れなかった英車御三家
驚異的な躍進を続ける日本車勢を牽制しつつ、来るべき新時代をリードするため、イギリスの古豪と呼ばれる御三家は’68年から750㏄ニューモデルの販売を開始。
とはいえ、ノートンが発売したコマンドとP11、BSA/トライアンフのロケット3/トライデントは、いずれも昔ながらの構成を捨て切れなかったモデルで、革新的な技術を導入した日本製大排気量車の前に古めかしさは隠せなかった。
TOPIC 3 海外に販路を求めた、日本製大排気量車の登場
従来は250㏄以下を主軸としていた日本車勢が、海外輸出を前提とする大排気量車の販売を始めたのは’60年代中盤から。
’64年のライラックR92、’65年のホンダCB450に続いて、’68年にはスズキT500とカワサキW1Sが登場。
なお2ストの大排気量化に不安を抱いていたヤマハは、’67年に350R1を発売。

●350R1は、ヤマハ初のフルスケール350㏄モデル。’68年に起こった3億円強奪事件で、ニセ白バイとして使われたことでも有名である

●カワサキは対米輸出車として、2サイクルツインのA1/A7に続きWシリーズも投入。写真はスクランブラーのW2TTだが、かの地の使われ方では過度な振動などの問題が露呈し、広く受け入れられることはなかった
TOPIC 4 50㏄スポーツの充実化
大排気量車が注目を集める一方で、’60年代後半は50㏄ロードスポーツ/スクランブラーの充実化が図られた時代だった。
’67年にホンダが市場に投入したSS/CL50に刺激を受ける形で、’68年にはヤマハF5S/C、スズキAS/AC50が登場している。

5段リターンミッションを採用したSS50とAS/AC50(写真)の公称値は、最高出力:6ps、最高速:95㎞/h。4段ロータリーミッションのF5Sは、5ps、83㎞/h
TOPIC 5 世界GPで英国勢が復権
ホンダが撤退した’68年の世界GP500では、久しぶりに英国勢が復権。
と言っても、チャンピオンはMV+ジャコモ・アゴスチーニだったのだが、シリーズランキング2位にはマッキンタイヤG50を駆るジャック・フィンドレーが入った。

●’68年の世界GPは、シリーズランキング10位以内に6台の英国車が入った。写真はランキング7位のデレク・ウッドマン+シーリーG50