1950〜1956 特需にわく国内景気の中、熾烈な販売合戦が開始される
敗戦に打ちひしがれていた世の中が、時を追うごとに活気を取り戻し、同時にスクーターの需要も着実に増えていったのが’50年ごろまでの流れだった。ここからは、ラビットとシルバーピジョンの市場シェアが拮抗し、激しい販売合戦を繰り広げていく’50年代中期までを追うことにする。
※本記事は別冊Motorcyclist2011年7月号に掲載されていたものを再編集しています。
特需下での需要増加
大径8インチホイールスクーター時代の幕開けとなった1950年。
世間では米を除く食料品の自由販売が認められ、日本人による自由経済を取り戻しつつあった一方、忌まわしい記憶である軍隊の復活とも取られた警察予備隊(自衛隊の前身)が発足。
また、GHQの指令で共産主義者を各組織から徹底して排除する、いわゆる「レッドパージ」が行われた。
6月には朝鮮戦争が勃発し、それによる特需で国内の鉄鋼および繊維関連企業が潤った(金へん、糸へん景気と呼ばれた)。
この朝鮮戦争特需による国内景気の向上は、国産スクーター業界にも多大なる影響を及ぼすことになる。
スクーターを購買できる層が飛躍的に増加し、翌’51年の生産数は前年比でラビットが1.7倍以上の伸び、シルバーピジョンが実に3.5倍近くの伸びを記録している。
お大尽の手軽な移動手段としての需要だけではなく、商品運搬をはじめとした商売道具としての需要が増加したことが主要因と思われるが、ともかくスクーター業界にとってもまさに“特需”だったわけだ。
この時期を経たことが、国産スクーターにある変化をもたらすことになる。
国民生活の改善に伴う顧客の要望の変化は、両車に見られるボディの大型化、装備の豪華化といった点に顕著に表れてくる。
「走れば十分な」ものから、「乗り心地よく、たくさん物が運べて、かつ所有感の高い」ものといったところか。
’51年発売のシルバーピジョンC-25、翌’52年発売のラビットS48を見れば、その傾向は明らかだろう(その端緒は、’50年発売のラビットS-41と見ることもできる)。
両車はこれらのモデルを境に、オモチャに毛の生えたような米国製の模倣品的なものから、徐々に国産スクーター独自の歩みを見せるようになったのである。
なお、この時期はメーカー側も積極的な宣伝活動を行っている。
民法ラジオ局からはスクーターのCMが繰り返し全国に流され、一般市民のスクーターの認知度はさらに高まっていく。
特にラビットの知名度は高く、「ラビット」と言えばスクーターのことを指す代名詞のようになっていた。
ある地域ではスクーター駐車禁止の表示に、「ラビット駐車禁止」と書かれていたこともあったという。
こうして市場が膨らむ中、明確になったのが“ラビットVSシルバーピジョン”の図式だ。
もちろん、誕生時から両車はライバル同士であったと言えるのだが、’50年までは生産数で常にラビットがシルバーピジョンを圧倒しており、それが拮抗し始めたのがこの時期なのだ。
そのため、販売合戦は熾烈とも言える様相を呈してきたのである。
激しい販売合戦の開始
記録に残る両車の生産台数の推移を見ると、その様子がよく分かる。別表①を見ていただこう。
朝鮮戦争が勃発した翌年の’51年から、休戦協定が結ばれ特需が終わる’53年、加えて特需後の不景気が訪れた’54年まで、年ごとに生産台数の勝敗が入れ替わっている。
つまりは市場シェアのトップが交互に入れ替わっているのだが、ライバル同士の激しい販売合戦がこの数字からも伝わってくるだろう。
ちなみに……この販売合戦の渦中の’52年にはサンフランシスコ講和条約が締結され、沖縄など一部を除き国土の主権が回復した。
先述の自由経済の奪回(という表現が正しいか分からないが)なども重なり、新しい時代に向けて、日本人による日本が本格的に再始動し始めたのが’50年代前半であったと言えよう。こうした上昇気運も、スクーター需要を押し上げた要因のひとつかもしれない。
主権回復の動きに伴い、戦後GHQに接収されていた土地・建物などの民間への返還も始まり、併せて旧財閥系企業の再編の気運が高まっていく。’52年、中日本重工業は「新三菱重工業」へと社名変更。わずか2年での“三菱” 復活である。翌’53年には富士工業をはじめ、財閥解体で分社化された旧中島系5社が統合され、現在に続く「富士重工業」が誕生した(正確に言えば、5社の協同出資によりあらかじめ設立した富士重工業を入れた6社合併である)。
また、新たな動きとしてこの時期、新規参入スクーターメーカーがちらほら顔を見せ始める。スクーターが売れ筋と見込んでの相次ぐ参入だが、中には富士工業/富士重工業のように、旧中島飛行機の流れを汲むメーカーも複数あった(ジェット号の三光工業、クラウン/キッド号の扶桑自動車工業、扶桑工業の後身であるナカジマ号の中島工業)。
とはいえ新規参入数は20社にも満たないほどで、時を同じくして各地に乱立したモーターサイクルメーカー(一説には200社以上)に比べると極端に少ない。大型プレスを必要とする生産設備の問題なのか、はたまた参入する側が、スクーターよりモーターサイクルに魅力を感じていたからなのか、はっきりこれだと言える理由は分からない。もしくは、ラビットとシルバーピジョンに対抗するには、すでに遅すぎると思わせるくらい両車の存在が圧倒的だったのか……。ともあれ、これら新参スクーターメーカーは、ラビットやシルバーピジョンに少なからず影響を与えたのは事実だが、いずれのメーカーも2大巨頭の牙城を崩すまでには成長せず、数年のうちに次々と市場から脱落していった。
’54年になると道交法改正があり、それまで150㏄以下だった軽二輪枠が現在と同じ250㏄以下に拡大。また同年に改正案が示され、翌年施行されたのが125㏄以下の2輪車を原付枠とする法規である(それまで4サイクルは90㏄以下、2サイクルは60㏄以下が原付だった)。その新原付枠に対応する125㏄モデルとして誕生したのが、ともに’55年発売のラビットS-71とシルバーピジョンC-70である。こうした度重なる法改正があったことが、追従できない新規参入メーカーをふるいにかける結果になったのだろう。
この熾烈な販売合戦の渦中で、富士重工業、新三菱重工業の両社は製品に次々と新機構を投入。フロントのテレスコピックフォークに始まり、遊星(プラネタリ)ギヤ式2段ミッション、流体トルクコンバーター、OHVエンジン、チューブレスタイヤなどなど……。
合わせて世間のスクーター人気はますます高まっていき、両社のスクーター市場における優位性は揺るぎないものとなっていく。これより後、’50年代後半に向けて国産スクーターは黄金時代を迎えてゆく。
商品の運搬用途にも大活躍
敗戦からの復興が進み、世の中に余裕ができるにつれて求められ出したのが“豪華さ”であったことは本文で述べた。
同時に運搬用途での需要が急増したのもこの時期で、車体の大型化による積載量増大は、そのニーズを反映したものでもある。
写真のシルバーピジョンC-35のように、車体に屋号の入ったスクーターが荷物を満載し、街を駆け抜ける姿が当時はよく見られた。
フワフワしたサスは大切な商品を運ぶのに安心できるものだったし、モーターサイクルに比べボディー面積の広い点は、商店や商品の宣伝スペースとしてとても都合のよいものだった。
言わば当時のスクーターは、今日の商用トラック的なものとして考えられていたのである。
ラビット
1952 S-52
「大きく、豪華」なスクーターを求める声がある一方で、軽量で扱いやすく安価なモデルを欲する層も少なからず存在した。
そうした需要に応えるべく企画されたのがS-52である。
独特のセミストリップスタイルに、特許の慣性クラッチ付きプラネタリギヤ式2速ミッションを備えていた(変速機の装備はラビット初)。
都会偏重と言われた従来の変速機なしラビットよりも、地方の山間部などでの実用性を大幅にアップ。
だが、いざフタを開けてみると思いの外売れ行きは芳しくなく、新機構の2速ミッションのコスト高も重なり、同年中に生産を中止せざるを得なくなった。生産数は3920台とされる。
↑H-21型エンジンは148㏄で3.0ps/3600rpm。写真右側のクランク端に付く部品が、慣性クラッチ付きプラネタリギヤ式2速ミッション。
通常のミッションのように、発進後に速度上昇に応じてシフトアップするものではなく、坂道など駆動力を必要とする場面で運転者がペダルを踏み、ローギヤを選択するという仕組み。
要はキックダウン的な用途を重視した機構だ(強いエンジンブレーキが必要な場面にも使える)。
↑財閥解体による分社化後、再統合して誕生する富士重工業の社章「フ」。
この社章が制定されるのは’54年4月との記録があるので、’52年式の車体に付いているのは解せない。後に取り付けられたものだろうか。
1952 S-53
不評だったセミストリップスタイルのS-52を改良し、流線型のカバーをまとって登場したのがS-53だ。
エンジンはS-52と同型式のH-21型であるが、ミッションが一般的なセレクター式常時かみ合い2速(MC-11型)に換装されたため、クランク軸端がS-52とは違い互換性はない。
’52年9月より約8ヵ月間生産され、生産数は1803台。
1953 S-55
148㏄のH-26型エンジンを搭載していたS-53をベースに、FE-16型199㏄エンジンを搭載したのがS-55だ。
S-53の流麗なスタイルのままパワーアップを図ったモデルと言え、最高速は5㎞/hアップの65㎞/hとなった。
ミッションはS-53同様にセレクター式常時かみ合い2速を積んでおり、排気量アップも相まって、あらゆる場面での実用性が高まっている。
1955 Junior S-71
同年4月に施行された新法規により、125㏄以下の2輪車が原動機付自転車区分となり、免許なしの許可証だけで乗れるようになった。
そこで富士重工業が製作したのがジュニアS-71で、ラビットとしては初の2サイクルエンジンTK-11型を採用している。
ボア・ストロークが52.0×58.0㎜のピストンバルブ式で、最高出力は上位モデルを凌ぐ5.5ps/5500rpmを発揮。
107㎏の軽い車体に左グリップ操作式2速ミッションの組み合わせで、従来のスクーターにない軽快な走りを可能とした。
このモデルを先駆けとし、ラビット各車は軽量・高出力な2サイクルエンジンを随時採用していくことになる。
1956 SuperFlow S-61D
’54年に発売された222㏄のヒット作S-61をベースに、エンジンをFE-52型236㏄に換装し、国産初の流体トルクコンバーターを搭載したモデル。
富士重工業は伊・ドゥカティの「クルーザー」というスクーターに搭載されていたトルコンに着目。
クルーザーは複雑な機構のため成功しなかったが、富士重工製トルコンは徹底した小型簡素化と高性能化を図りMD-13型として完成した。
このトルコンの基本原理・構造は現在の4輪ATのものと大差なく、当時としては画期的なものであった。
メディア向け発表会は乗鞍岳山上で行われ、供された3台のS-61Dは快調なエンジン音を響かせ、過酷な山岳路を軽々と登って行ったという。
シルバーピジョン
1953 C-26
ラビット、シルバーピジョンともに米国製スクーターの亜流として誕生した過去を持つが、この時期になると新たな設計思想を求め両社とも欧州製スクーターに目を付けた。
その中で誕生したシルバーピジョンC-26は、伊・ランブレッタに似たスタイルを持ち、大型レッグシールドの装備で下半身を寒風から守り好評を得たが、発売後すぐに過剰な振動やエンジン異常摩耗のクレームが続出し、成功作とはならなかった。
148㏄、3.0ps。
1954 C-57
’54年8月に登場したシルバーピジョンC-57は、デザインと機能面で従来モデルより格段に近代化が図られたモデルだ。
ボディ前後に大型ウインカーを標準装備し、ヘッドライトとボディの一体化デザインを初採用した。
この時期からシルバーピジョンはチューブレスタイヤを採用し始め(ラビットも同様)、まだ世間の道路事情が悪い中にもかかわらず、パンクによる立ち往生の心配を激減した。
チューブレスタイヤはスクーターならではの鉄板合わせホイールだからできた芸当で、同じく合わせホイールが多かった4輪車の世界でも採用例が増えていた技術だった。
C-57のエンジンはNE4A型でサイドバルブ192㏄、圧縮比5.0から4.1psを発揮した。
↑ショー会場で展示されるC-57に見入る人たち。
撮影場所はハッキリしないが、日比谷公園で開催されていた東京モーターショーだろうか。
1955 C-70
ラビットS-71同様、新法規で誕生した原付2種需要を見込んで発売された。
ボア・ストローク55.0×52.5㎜の124㏄で圧縮比5.7、出力は3.6psでそれまでの175㏄クラス並みの性能を確保していた。
デザイン上は前年登場のC-38をほぼ踏襲しており、可能なかぎりコストをかけず新ジャンルへの対応を行っている。
とはいえ、サイドバルブエンジンは右のC-90同様傾斜バルブを採用しており、排気量の減少による出力不足を可能なかぎり補う努力をしている。
11万4000円と比較的安価なモデルだった。
1956 C-90
C-57の後継モデルであるC-90。先代からの変更点は多岐にわたる。
フロントフォークはテレスコピックからピボットを持つアールズ的なものになり、それを支持するフロントフォークもMC的な三つ叉方式から、現代スクーター同様のステムシャフト下で分岐する方式になった。
ほか、手動進角レバーの新設、エンジンへの導風構造改善による発熱の抑制など。
特筆すべきはエンジン性能の大幅な向上で、サイドバルブのままではあるが、吸排気バルブに傾斜角を付けることで圧縮比を稼ぎ(5.0 → 6.0)、より効率的な燃焼を得ることを可能とした。
撮影車は’58年型。
↑エンジンはC-57のNE-4A型を大幅改良し、192㏄のまま5.7psに出力アップ。
しかしサイドバルブという形式はもはや時代遅れであり、三菱は順次エンジンのOHV化を進めていくが、それすら時代の流れに置いて行かれる運命をたどることになる。
ただしこの時点で、三菱がそれに気づいていたかどうか……。
↑メーターまわりのまとまり具合は数年前のモデルの比ではない。
右グリップは普通のスロットルだが、左グリップも標準位置から上下に1段ずつひねることができる。
それがどういった役割を果たすかと言うと、何とウインカースイッチである。
↑茶筒形状のガソリンタンクの後ろには、小判型の小さなタンクが見える。
これはドライブチェーンの自動給油用タンクで、エンジン左側のドライブスプロケット付近からチェーンに少しずつオイルを垂らすものだ。
こうした新機構が次々盛り込まれていくのが、この時期のスクーターの大きな特徴である。
参考文献
富士重工30年史
三菱重工業株式会社史
ラビットの技術史 影山 夙著(山海堂)
創造の喜び 一エンジニヤの自叙伝 片山 徳夫著(非売品)
私のラビット物語 小川 清著(日刊自動車新聞社)
カタログでふりかえる日本のスクーター 小関和夫著(三樹書房)