失意の大転倒を経て
最初のバイク、ゼロハン時代から伝説の通り名は誕生していた! 由来はどのようなものだったのか。
「中学生時代、横浜港で零戦が引き上げられるというニュースがテレビや新聞などで流れたんですね。その機体にハッキリと書かれていた〝鷹-彗星〟という文字が強く印象に残っていて、『よし、自分の愛機には彗星と書こう』と決意したんです」
峠を駆け抜ける楽しさに開眼した堂薗さんは、早速GOTO(後藤商店)のツナギを入手し、本格的に走り始める。
すると同じような仲間が集まり〝RTやんちゃ〟が生まれた。

●今はなき、大垂水峠ふもとのコンビニ。ここで友人たちと待ち合わせをして、いざ峠へ向かう……という姿が日常風景となっていた
メンバー内には堂薗さんと自宅の近かった〝やんちゃガンマ〟さんも。
「チーム員は10人くらい。『じゃあ、筑波にでも行こっか』くらいのノリで、RZ50/125のレースに参戦を始めました。とはいえ、高校生にとってトランポなんて夢のまた夢。そこで僕はレースを走る車両にリヤカーを取り付けて、下道オンリーで所沢から筑波サーキットへ。スピードを出すだけなら問題ないんですが、いざ止まろうとしたら道具を満載にしたリヤカーの慣性がものすごくて止まってくれない(笑)。何度となくキモを冷やしましたね……」

●「RT(レーシングチーム)やんちゃ」にいた彗星さん。メンバー内には、これまた有名な"やんちゃガンマ"さんも所属

●仲間とツーリング……とはいえ、いざ走り出すと結局は尋常ではない速度域での移動になったとか。「毎回、旅というより"遠征" という雰囲気になっちゃってました(笑)」。ちなみに身長165㎝、体重56~58㎏という体型は写真のころから不変だ
連日の峠通いによる走り込みが天性のセンスへ磨きをかけ、大垂水でもレースでも〝彗星〟の名は、多くの人に知られるようになる。
「サーキットで練習をしてたら、お金がいくらあっても足りないですから。マージンを十分取りつつも、ひたすら大垂水を走っていました。それでも正直、後ろからせっつかれた記憶はないですね。おかげでレースでも雨の日と、峠並みの高低差があるSUGOは大の得意でしたよ」
84年、市販レーサーと同時開発という触れ込みでNS250Rが登場。
さっそく購入した堂薗さんは、以降、ホンダ2スト250マシンで公道とサーキットを駆け抜けてゆく。
高校卒業後、運送会社、マフラーメーカー、バイクショップなどで働きながらレース活動へも全力投球。
「峠出身のライダーはセッティングが出てなくても、それなりに乗りこなしてしまいますから。あとは気合いを入れれば0.3秒くらいタイムアップするものなんですよ(笑)」
堂薗さんの駆るマシンのカウル裏側に、必ず〝気合い一発by彗星〟と書かれているのは有名な話である。
人の縁にも恵まれレースに集中できる体制が整った90年以降、IA250クラスで確実に成績を積み重ねていき、28歳の93年には宇田川 勉選手と組んで鈴鹿8耐に出場するというビッグチャンスをものにした。
果たして、練習走行では絶好調。
13秒台までたたき出し、期待が高まったが……予選で大転倒を喫する。
「全身を8カ所ほど骨折して、全治4カ月間の大ケガ。腕にはまだそのときのプレートが入ってます。ベッドの上、いろんな考えが頭をよぎりましたが、結局、レースからはいったん離れ、入院中も尽くしてくれた彼女と結婚することにしました」

●参戦体制も充実し、脂が乗っていた92年は全日本選手権IA250クラスを転戦。最終戦の筑波では市販レーサー・ホンダRS250で59秒台をマークし、チームからも喝采を浴びた。そして運命の93年へ
翌年、挙式。
レース時代につながりのあった人に薦められ、リハビリもそこそこ、現在働いている業界の門をたたく。
持ち前の集中力と負けん気で、目に見えない上りと下りの続く〝人生の峠〟を攻め続けた堂薗さんの現況は冒頭に述べたとおり。
「最近、建築&解体業界のなかではバイク人気が再燃してまして、いろんなお誘いを受けるようになりました。200馬力クラスの最新ニューモデル群に混じり、僕は90年式のNSR250Rを峠で走らせるのですが、もちろん一度としてせっつかれたことはありません(笑)」
気合い一発、災いを転じて福となした彗星は今も輝き続けている。

●最近の大垂水峠。残念ながら現在でも、原付・自動二輪(125cc以下)は、神奈川県側の約3.5kmにおいて土曜、日曜、祝日の終日通行禁止が続いている
→:【「バイク熱狂時代」は永遠に:2】峠のルール(順次公開)
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