目次
エイプ、ズーマー、バイト、ソロ、PS250、NP-6……
ホンダは2001年からの4年間、異色とも言える一連のモデルを開発した。
これがいわゆる「Nプロジェクト」である。
ターゲットはバイクファンやベテランよりも、普通の「若者」であり、そこへ新しい価値を持った商品を継続的に送り出すという目的を持っていた。
技術面においての革新的チャレンジは得意だが、商品パッケージとしては保守的なホンダの中で、Nプロジェクトは異形であり異端であり、あるいは掟破りの内容だった。
この連載は、そんなNプロジェクトのメンバーたちによる破天荒なバイク作りの物語であり、まったく新しいバイクを創出するための 「心の在り方」を考える少し大人のストーリーである。
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子
時代が進歩すれば、若者も進歩する
若者に進歩がなかったら、時代は後退する
「若者攻略」を要とする特命チームの実際
Nプロジェクト(以下Nプロ)は2000年5月にスタートした。このホンダの新たな取り組みは世間からも注目を集め、一般紙などでも記事として扱われた。20代の若手社員による若者を意識したプロジェクトチームの誕生は、当時落ち込みが続いていた国内販売に歯止めをかけられるか?と話題となった。
Nプロ発足当初の目標や方針は以下のようなもので、『やる気のある若手技術者が中心となり、自ら欲するモデル創りをする』の宣言とともにメンバーは所内公募された。
●活動の目的
『時流にフィットした新価値商品を俊敏に創出し市場の活性化を果たす』
市場活性化と人材育成の両面を狙いとして展開
目標
- 1機種以上/年を上市し、国内市場の活性化に寄与する
- 若手技術者の意思反映と、市場性を自ら検証した商品企画を実施する
- 幅広い視点の思考力育成(専門技術領域にとらわれない)
- 市場の情報収集、発想、構想、企画から量産、市場検証まで、開発の流れすべてを実践体験し理解する
方針
- 若手技術者の感性を活かしたプロジェクトメンバーの共創
- 自他非分離の考えに基づく意思決定
- 既存部品の有効活用化による短期開発
- プロジェクトメンバーの自主性を尊重
- 若者研究の実践として社内公募による若者チームでプロダクトを開発する
このように文章としてまとめてしまうと、あっさりとした印象となってしまうが、もちろん一朝一夕でここに至ったわけではない。1990年代後半における二輪市場の動向や、それらに対する新プロジェクトにつながる動機は、これまでに述べたとおりだが、この第3章ではそこにさまざまな伏線や “仕込み” があったことを説明しておこう。
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
そもそも、ホンダの若者研究は、Nプロの発案者でプロジェクトの総責任者となる中野耕二 HGA取締役所付(当時)の主導によって水面下で進められてきた。そして、そこから導かれた仮説を踏まえ、1999年に『国内若者研究プロジェクト発足会』が行われている──ここでの中野の発言は、記録によれば以下のようなものである。
「国内の市場状況は、我々のバイクを受け入れられない若者がマジョリティになりつつあると言えそう。従来の市場動向調査だけでは不十分な状況にある。日本には二輪社会があってしかるべきなのに、若者にとって今の二輪は違った形で認識されているようだ。つまり我々と若者たちの間に価値観のミゾがあるということだ。よってこのプロジェクトは宇宙人相手に宇宙食を作るプロジェクトになる」
「今現在、バイクに乗れる年齢にあるのに乗らない人たち、そういう人たちがどう思っているのか、体で感じて企画を立てて行って欲しい」
この若者研究プロジェクトでの焦点は、以下の3点である。
・価値観のミゾを超える商品とは何か
・価値観のミゾを超えるソフト展開とは何か
・バイクへの関心を上げる手法とは何か
要するに、Nプロという開発部隊結成に先立つこの時期に“若者研究”をテーマとした様々なアクションが朝霞研究所で起こされていたのだ。
この『国内若者研究プロジェクト』自体は、研究所内の二輪に乗らない、関心のない所員へのリサーチを中心としたが、ほかにも外部と連携した調査継続や、企画、デザイン各部門のメンバーなどによるフィールドワーク、商品検討も並行していた。第1章で述べたFTR(FTR223)も、このようなNプロ発足以前の活動から生まれたものだった。
始まりの始まり。その1
「TWを今すぐなんとかしろ!」
1995年前後、東京でストリート系が流行り出した頃。その中心にいたのは原宿、渋谷、代官山のヘアメイクやアパレル系の仕事につく若者達だった。1996年には『ストリートバイカーズ』という二輪メディアも創刊されるなど、そのムーブメントの規模は大きなものとなっていた。
当時中心にいたのはヤマハTW200であり、SR400であり、ホンダはその端緒で大きく出遅れたというのは第1章で述べた。FTRはそんな状況を覆そうと2000年9月に投入されているのだが、その開発はふたりの人物が中心になって、市場をつぶさに調べながら進められた。
担当したのは、当時デザイン室にいた澤田琢磨(当時主任研究員、現在はエキスパートエンジニア)と青山本社の国内二輪営業部にいた畑中眞人(当時主幹、現在はエキスパートエンジニア)。
ふたりはこの後もNプロと関わりを持つことになる。
澤田「ある日、“いい加減、TWをなんとかしろ! 今すぐなんとかしろ!”って、池ノ谷さん(当時研究所所長)がデザイン室に乗り込んできた。それで小濱さん(当時デザイン室長)がニコニコしながら“こいつにやらせますから”って即答したんですよ」
澤田はその頃デザイン室に所属しながら第2章で述べた『シブヤの謎』などの若者価値観調査を推進していたのだ。
畑中「その頃、TWが月間9000台くらい売れていた。その状況に困り果てた国内二輪営業部が研究所に泣きついていたわけです。“TWみたいな30万円台で売れる250を作ってほしい”と」
まずは観察することから始めようと、ふたりはトレンドリサーチと称し、毎日のように渋谷や原宿を自由に歩き回った。駐輪しているバイクのオーナーと会えるチャンスは2回しかない。そこに来たときと、そこから帰るときだ。来たら寄っていって話しかけ、来なければ戻ってくるまで待つ。そうしているうちに、どこに行くとどんなバイクがあるのかが分かってきて、オーナーの大半は井の頭線沿線から来ている、というようなことなども分かってきた。
澤田「すでにTWが2年近く販売台数のトップなのに、その理由を誰も調べようともしないし、二輪専門誌にも全然記事が載らない。不思議で仕方がないから原宿に行ってみたわけです。原宿をベースに畑中とブラブラして“なんとなく生態が分かってきたな”と。その結果、FTRをもう一回出せば売れる、絶対売れると確信したんです」
畑中「先行のクレイモデルはすでにありましたが、いっそFTRにしちまおう──実は澤田が前もってタンク・サイドカバー・シートを新品で購入しておいたんです。何しろFTRの中古が高騰していたからパーツが手に入りやすかった。それで、粘土を剥がした車体にその部品を乗っけて、渋谷の東急ハンズの前に置いたんですよ。“これどう?”ってバイクに乗った若者に声かけると、“FTRいいっすねぇ。欲しかったけどないからTWなんすよ〜”と言うわけですよ。で、そんな様子をビデオ撮影して評価会で流しました」
それが答えとなり、開発GOの判断が下された。FTRをリバイバルさせる。では、それを早く、安く実現するにはどうすればいいのか?
安価なTWに対抗して車両価格を抑えることは至上命題であった──澤田は会社の駐輪場に行って、単気筒エンジンを使っているオフロード車XLR200Rを見つけた。そして、その当時すぐに使えるエンジンで、一番ローコストで排ガス規制をクリアしていたのはSL230の223ccエンジンだった。これは1973年のバイアルスTL125に始まるホンダの長寿エンジンだ。
そこで、XLRのフレームにSLのエンジン乗せた場合、エンジンの高さはどのくらい変わるのかを確かめ、燃料タンクとサイドカバーをFTR250と共用することでFTRの基本構成を決定したのだが、絶版車の金型を再び量産適用するこのような手法は、『新しさ』を是とする研究所では、当時ありえない事だったと言う。
だが、以前にも書いたとおり、FTRはヒットしたのである。その価格はソリッドカラーで32万9000円。当時の様子を知る秋葉正博(当時主任研究員、現在はOB)も回想する。彼もまたこの後にNプロのマネージャーを務めることになる人物だ。
秋葉「開発者は『軽二輪の排気量は法規上限の249ccがあたりまえ』と常識にとらわれてしまう。しかし、それを『223ccでも大丈夫だ』という判断に踏み切ったのには驚かされた」
澤田「彼らは安くないと買おうと思わない。欲しいバイクを買うために我慢して貯金するような人たちじゃない。デートもしたいし、服だって買いたい。中古車よりちょっと高いけど、“この値段だったら良いかな”という価格帯じゃないと手を出さなかった」
秋葉「彼らにとっての適切な価格帯を最重要課題に考えたのがすごい。排気量もそうだが、『他モデルとの部品共用化は、たとえコストが下がったとしても製品の個性が失われる』とか『エンジンに振動低減バランサーを付けるべきだ』などの反対意見を乗り越えてFTRは実現されたのだと思う」
澤田「何しろ、若者研究は中野さんが言い出したこと。“お前、管理職だろ?自分で調べろよ”と言ったきり、もう完全に放置プレイなんですよ(笑)。中野さんとは25年くらいずっと一緒に仕事をさせてもらったけど、いつも“お前が考えて、やれ”とか、“資料作ったお前が、社長プレゼンもやれ”って調子だから、やるしかないわけですよ」
本人が望もうが望むまいが、才能や可能性を持った人材だと見れば、中野という“やばい渦巻(うずまき)”は次々と人を飲み込んで行ったのである。そして、中野は“渦巻発生装置”といった趣の仕込みをすることも得意だった。
始まりの始まり。その2
「Move」とは何だったのか?
さて、Nプロの始動からはるか遡ること11年。1989年8月のまる1か月間あまり、ホンダ青山本社1階のウエルカムプラザで前代未聞のイベントが開催された。
「Moveホンダモーターサイクルデザインワールド」と銘打ったそれは、研究所のデザイン室をそのままウエルカムプラザに再現しており、ホンダ二輪のデザインプロセスやその手法が丸わかりになるものだった。
前代未聞といったのは、研究所のデザイン室で行われていることは、いわば二輪作りにおける秘中の秘であり、それまで部外者には一切見せられないトップシークレットだったからだ。それをデザイン作業の実演までして懇切丁寧にお見せしましょうと言うのだから、エライことだ。
そして、これを企画したのが誰あろう、中野耕二だった。
このイベントの狙いは『若年層を中心に幅広く、限りなきモーターサイクルの“夢”を提供する』というものだったが、そもそもは当時のデザイン部門のトップだった森岡 實が、ヤマハがマーケットに向けて行っていたデザイン訴求を見て、「うちは何かやらなくていいのか?」と投げかけたところに端を発している。
「それならば、ホンダはもっとカッコよく見せてやろうじゃないか」と中野が大判振る舞いをしたわけだ。
しかし、イベント実現まではいろいろと大変だった。何しろ会社の機密を公開してしまうわけだから、誰の責任においてイベントを承認するのかという壁がそびえ立っていた。しかも、ウエルカムプラザは四輪も含めた製品の総合展示スペースだったから、二輪のイベントで1か月間も占有することなどあり得ないというものだった。誰もやったことのないことに対して社内の反応は熾烈だった。
「無理だよ」、「あきらめな」、「わかってるのか」、「馬鹿なのか」、「ふざけるな」という門前払いのオンパレードであり、「何度も暗礁に乗り上げたような状況があって、実はけっこう眠れない日も続いた。しかし、この時はまだ組合員だったので、多少暴れてもクビにはならないだろうという開き直りもあった」と中野は回想している。
ついには、当時の社長と副社長それぞれに対して直談判に及んだことで実現への大きな足がかりをつかんだのだった。また、展示の主旨に賛同した協賛メーカー、協力メーカーの存在も決して小さくなかった。
このイベントで中野が伝えたかったのは以下のようなものだった。
Moveでやったこと、語りたいこと
■Move=感動する
・感動を受ける:デザインプロセスの凄さを知ってもらいたかった。
・感動を与える:モーターサイクルデザインに憧れを持ってもらいたかった。
・感動を伝える:Hondaのビジョンや未来観を広く知らしめ、共感を得る。
■Move=行動する
・未経験のこと、誰もやった事のないことには躊躇や反対が付きまとう。
・動きそうに思えない困難を動かすためにはクリエイティブな発想が必要。
・あるときはがむしゃらに、あるときは周到に。
いざ蓋を開ければ夏休みということもあって、学生も含めた多くの来場者が集まったのは中野の回想録(後述)のとおり。その中に四輪デザインの専門学校生がいた。その青年は、学校からイベントの存在を聞き、とりあえず様子を見に行ってみようか、というくらいの気持ちで会場を訪れた。
このいたいけな青年を、会場の説明員として待ち受けていたのが中野だった。持参した数枚のバイクのスケッチを中野に見せたところ、どうしたことか入社試験を受ける話へ進んでしまったのだ。結局、その青年は1991年に研究所に入社し、現在のデザイン開発室に配属となる。それが、後にNプロから生まれたモデルのデザインにおける中核メンバーとなった立石 康である。
Nプロ始動の11年前で、FTR250もTW200もすでに販売されてはいたものの、まさか爆発的なブームになるとは誰も思っていなかったし、若者研究の“わ”の字もない頃の話だ。
この出会いが偶然なのか、必然なのか──。しかし、少なくとも中野が伝えようとしていた“Move=感動する”の、感動を受ける、与える、伝えるは大成功だったと言っても良い。その出会いを立石は「すごくラッキーでした」と言うが、まんまと渦巻に巻き込まれたという見方も、その未来を考えると間違いではないだろう。
中野は未来を見据えてなのか、そうではなかったのかは分からないが、結果を見れば着々と“ものづくり”の種まきをしているように思える。さらに遡ればアメリカ駐在から帰国した直後の話も面白い。
帰任当初、マネージャーに「中野君、ちょっと面倒な奴らばっかりで悪いけど、君なら面倒見られるよね」と言われ、デザイン室でも問題児チームのリーダーにされてしまったのだが、ここでも斬新なというべきか、横紙破りというべきか、それまでにないシステムを構築している。それが“一発役満” と呼ばれたものだ。
これは、デザイン室が役員室に支配されているように見えたこと、つまりデザインの評価を役員達が行なっているのは不自然だと中野が感じたところから始まっている。そこで、デザイン室の中に役員も入れない部屋=“役満部屋”を作り、そこで自分達が本音で作りたいものを作り、それをボトムアップ提案して量産開発につなげる、すなわち“一発役満”ができる慣例を作り上げようとしたのである。
役満とは麻雀での大役のことだ。このネーミングは当時麻雀にハマっていた中野が、役満によって一発でその場の勝負を逆転できる時の爽快感から名付けたというが、この“役満部屋”からは数多くのモデルが生まれた。その中には実際に製品化されたモデルも少なくない。
また、この時代の経験から中野は「やはり自分の使命は“ものづくり”。あくまでも提案する側にいるべきだ」と考えたという。その後、組織の中でその立場を高めて行くことになるのだが、アメリカ駐在、そしてこのデザイン室の時代よりもさらに深くヒトの心に斬り込んで、さまざまなリサーチ手法や、新コンセプトの創出活動を続けたのである。そのひとつがまさに若者研究であり、Nプロという組織の創出だったのだ。
今度こそ本当の始まり
動き出すNプロジェクト
さて、話をNプロ始動の2000年頃に戻すと、Nプロ1年目の目標であった『若者プロジェクト提案の具現化実行計画』は、すでに1999年には仕込みが始まっており、ものづくりの洗礼を受けるべくやってきた若者たちが具体的な開発を開始するのを待っていたのである。
それがAPE(エイプ)、ズーマー、バイトという原付1種の3モデルだった。中野の指示を受けたデザイン室のひとりがFTRを手掛けた澤田だった。
「本社への“研究テーマ報告会”の場に、若者研究の成果を提示しないといけなかった。その中にAPEやズーマーなどの先行車が入っていました。APEは昔の原付バイクのようにしたかったんです。
自分は初めて乗った原付のミニバイクで、車載工具のスパナなんかでおっかなびっくり “タンク外れた〜”なんてやっていた。そんなことを経験してもらいたかった。あの楽しさっていうのは忘れられなくて──で、走ってみたらちゃんと応えてくれる。
バイクに初めて乗った時の感動というか、世界中どこでも行けそうな感覚。それが感じられるバイクを作りたい。そういうバイクだったら、次もまたバイクに乗ってくれるでしょう。そういう仕込みは絶対必要だと思っていたんです。自分はデザイナーですが、FTRの時も操安(操縦安定性)とかエンジンの担当者と一緒に“面白くないと絶対ダメだから。そこは嘘をついちゃダメだから”とやっていました」
前提として若者が買いやすい値段で作らないといけないが、ある部分では絶対に妥協しない。それが性能なのかデザインなのか、はたまた根源的なコンセプトそのものなのか。その想いを具体的な商品にするために、自ら手を挙げて集まった若手エンジニアたちの奮闘と苦悩がいよいよ始まる。
さて、ここまでの物語の主人公である中野が今回の記事のために当時を回想する手記をしたためてくれたので、ここで紹介する──中野の渦巻は、デザイン室関係者や若手だけではなく、ある意味全社的に拡大したわけである。
『振り返ってみると、私はいつも“それまで誰もやっていないことか”、そして“それはHondaらしいことか”という両面から行動してきたように思えます。そこにお客様の笑顔を思い浮かべることができた時、いつも私のスイッチはONに入ったのです。
Moveの時もそうでした。
私がMoveを提案した当初、周囲の上位者の反応は全員「ムリ」。相談する先々での“100% NO”には正直追い詰められました。頭の中には、真っ黒になったオセロゲームの盤面が浮かびましたが、同時に『この盤面を真っ白にするにはどうすれば良いか?』と、考え始めてしまう自分がどうしても止められなかった──私のスイッチはすでに入っていたのです。
その末の結論は“今の状況を打破するには、この手しかない”という、ある行動でした──ある朝、ホンダの青山本社に行ってある人を待ち構えました。1Fのピロティ(車寄せのある場所)に黒塗りのレジェンドが入ってきて、待ち人来る。それは、当時の社長だった久米是志さんです。
間髪入れず駆け寄る私に、驚いたのは保安係の方です。私と久米さんの間にすかさず割って入る素晴らしい仕事ぶり。一方、社長である久米さんは驚くこともなく、「おいピート、どうした?」と保安の方をいなしたのです。
“ピート”とは、私のアメリカ駐在時代のあだ名です。現地で北米商品戦略なども担当していた私(編注:第2章参照)には、その当時、研究所の社長だった久米さんを1時間近く黙考させてしまうプレゼンをやらかした“前科”がありました。
また、久米さん来訪の折には上司からアテンドなども申し付かり、さらに現地デザイン室の若手とともに一席設ける、などという役目を果たしていく中で、私は久米さんから「HRA(Hondaの北米研究所)のピート」という認識を頂戴していたのです。
「ちょっと僕の話を聞いてください、5分だけ!」
1対1でプレゼンボード片手のMove構想の説明。青山本社の車寄せでの紙芝居です。久米さんは黙って耳を傾けた後「私は良いと思うが、ここのウエルカムプラザは営業のテリトリーだから、そのボスの吉沢副社長にうかがったら?」と一言。
吉沢副社長とは、私がアメリカ駐在当時の現地法人であるアメリカンホンダの社長だった方であり、やはり大変お世話になったが故に、久米社長同様「ピート」が通じる方でした。お互いの職位がたとえ“浜ちゃん・スーさん”であろうが、これも立派なネットワークなのです。
その翌日、久米社長にしたのと同じことを、同じ場所で吉沢副社長に行った結果は、「久米さんが良いと思うなら良いのでは」でした。頭の中でオセロの盤面がまっ黒から、まっ白に裏返っていきました』
『結局、〈Move ホンダモーターサイクルデザインワールド〉は、開催期間40日でのべ4万人の来場者があり、二輪専門誌のみならず、デザイン誌、新聞、ファッション誌、海外誌などでも紹介されました。
後にNプロジェクトのメンバーとなる優秀な人材を確保するなどの成果を収めた一方、本社の“製品総合展示スペース”を1ヶ月以上も二輪に乗っ取られた形となった四輪事業部長は「てめえ、俺を出し抜きやがったな!」と、そのお怒りは相当なものでした。私は「このやり方しか残されてなかったのです」と応えるのが精一杯でした。
以上、これは決して人に勧めることはできない、無謀なやり方です。ホンダの方針には「調和のとれた仕事の流れを作り上げること」と明記されていることもお忘れなく。
さて、この時点より前からの話になりますが、上司はともかく、私の周りにはなぜかいつも“味方”が増えて行ったことを思い出します。Moveの実現にあたって忘れがたいそんな仲間のひとり、土屋一正(当時デザイン室管理マネージャー、現OB)のことを紹介しておきたいと思います。
会議において彼が議事録をとり始めると周りの皆が救われる、土屋とはそんな人物です。出席者全員がてんでに吠えるのが当時の“ワイガヤ”(ホンダ流ブレーンストーミング)の常でしたが、彼の手に掛かるとその議事録は「まさに完璧」。内容は勿論、文字サイズ、フォント、レイアウトなどすべてが「手書きなのに完璧」なのです。彼のあだ名は「歩くワープロ」(私の「ピート」とは大分テイストが違うわけです)。
加えて、彼は私と全く異なる独自ネットワークを持っていました。社長、副社長からOKをもらった後、実施に向けては彼のネットワークと実務手腕が最大限に発揮されました。取引先企業の協力取り付けに始まり、大小什器やディスプレーの計画・発注・施工・管理、ポスターやノベルティ制作から案内板の用意、さらには各メディアへの開催告知などなど…
このように、Moveは多岐にわたる補完/共創関係によって、ホンダの動きとして一気に周囲を巻き込み、夢はブレることなく現実へと向かいました。その過程は正に、創業者の言う「得手に帆をあげて」そのものであったことを記しておきたいと思います』
その土屋一正さんからもコメントを頂戴することができたので、ここで紹介して今回の章の締め括りとしよう。
『私は、1983年に本社の販売促進部から朝霞研究所のデザイン室へ異動になり、デザインサポートブロックという部門で、デザイン資料の収集管理や機材・画材の調達などのサポート業務に就きました。
そこでは、仲間に透視図制作や開発経過を記録する写真に関するプロ並みの人材がいたので、彼らの能力をもっと活かそうと思い、本社で一緒に仕事をした仲間に掛け合って、カタログへの透視図掲載を実現しました。また、発表会や試乗会で使用する技術資料の制作なども一手に引き受けたのです。
そんな中でデザイン室のメンバーが凄い仕事をしているのに、世の中では認知されていないことに不満を感じていました。途中でお蔵入りしたデザイン画やモックアップはもちろん、ひとつのモデルを誕生させるための最初の作業がデザイン室から始まることを、もっと知ってもらいたかったのです。
デザイン室では、いつも中野さんや他のメンバーとワイワイやりながら、「どこかでアピールしたいよな」と言っていました。そこで出たアイデアが、私が以前在籍した本社の職場の伝手で、青山本社のショールームに朝霞のデザイン室を再現しようということでした。
研究所の上司に相談したところ、「会社からカネは出せないけど、自分達で出来るならやってみろ」とのお墨付きを貰い、一気に物事が加速しました。イベントのネーミングは、私が提案した〈Move〉で決まりでした。このネーミングを思いついたのは、以下のようなきっかけです。
私が朝霞研究所に異動した際に、最初に挨拶に行った吉野浩行さん(当時研究所 所長、後に本田技研社長)から「英語は出来るよな?」と言われ、実は挨拶程度しか出来なかったのですが、つい「普段の会話程度なら」と答えてしまったのです。
そんな経緯から、私はいつも小さな和英・英和辞書を持ち歩くようになったのですが、中野さんたちとのワイガヤの最中に【Move:動く・心を動かす・感動させる、Mover:発議者】という意味が目に留まり、それを提案したところメンバーの賛同を得ることができました』
『その後、中野さんが“デザイン室で創ったもの・創れるもの”を担当し、私が展示に向けた実務を担当することになりました。会社からおカネは出ないので、研究所に測定機器や画材・素材を納入されている企業さんに、青山での展示と搬入搬出を手伝って頂き、さらにはデモ時の消耗品もご提供いただきました。
イベントPR用のポスター・ステッカーデザインと印刷は、ここでも伝手を頼って無償提供していただきました。その見返りはポスターに企業名を掲載するだけの、ほとんど慈善事業のような協賛でしたが、沢山の企業さんに支えて頂いたのです。
イベントに対しては、本社 (特に四輪部門)からは、ショールームに展示車両がなくなることへの反発もありましたが、社員ですら入れないデザイン室の様子が見られるということもあり、総じて好評を得られました。
期間中は、メディアの皆様をはじめ、デザイナーを志す学生さんや、他メーカーのデザイナーさんも来場され、それなりに評価されたと思います。そして〈Move〉は、私が翌年にHRCへ異動した際に初めて獲得したスポンサーシップであるOKI HONDAと共に、私のホンダ人生の中でエポックメイキングな出来事となったのです』
レポート●関谷守正 写真●柴田直行/ホンダ 編集●関谷守正
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子