東京都品川区。山手通りこと都道317号線でJR大崎駅から西に進むと、すぐに東急池上線の大崎広小路駅のガードが現れるが、それをくぐりさらに進むと今度は東急目黒線(旧・目蒲線)のガードが見えてくる。
目黒線のガードを越える先の左側が、目黒製作所の正門があったところだ(現在は東京日産のビルになっている)。
近隣の不動前駅からかむろ坂通りの周辺には数多くの目黒関連会社があった。エンジン担当の昭和機械製作所、鋳物の目黒合金鋳造所、車体担当の大和製作所、プレス部品の目黒板金工業、塗装の目黒塗装工業──。
しかし「目黒製作所」としての最後の生産拠点となったのは横浜で、「メグロK2」や「メグロSG」はカワサキの明石工場からラインオフしていくことになる。
戦前から大型二輪車の名門として君臨してきた目黒製作所に何があったのか?
戦後は目黒製作所初の250cc車「メグロ ジュニア」で生産を拡大、S型・J型などラインアップも広げる
第二次世界大戦の戦時中には工作機械を栃木県・烏山工場(*)に疎開させていた目黒製作所だが、戦後、烏山から東京・大崎の本社工場や各協力工場に工作機械を戻し、1948年(昭和23)年から生産を再開する。
当初は戦前に開発したZ97、Z98の一部改修版で、高価な500cc単気筒「メグロZ」のみの生産だったため、生産台数は年間約300台に留まった。
*1943年建設、戦後も1960年代までミッション製作などのため稼働を続けている。
しかし、1950年(昭和25)年11月に「メグロZ」を小型化したようなOHV単気筒の「ジュニア250ccJ型」を発売、手ごろな価格で大いに人気を博す。
結果、翌年には「Z」と「ジュニア」を併せ、生産台数は年間1593台に達している。
ジュニアは1951年(昭和26年)にリヤサスペンションを備えた「J2型」へとモデルチェンジするほか、その後、300ccクラスを「J」、250cc(軽二輪)クラスを「S」とラインアップを分ける。
軽二輪の「S型」は特に販売を伸ばし、1953年(昭和28年)に登場した「S型」から、1954年(昭和29年)には出力を向上させた「S2型」を登場させ、1956年(昭和31)年に「S3型」、1959年(昭和34年)に「S5型」、1960年(昭和36年)に「S7型」と矢継ぎ早に発展していく。
「S5型」が登場したころには、250ccOHC単気筒の「F型」と合わせて、軽二輪で年間1万1584台もの生産量に達していた。この当時は戦後生まれのメーカーが急速に躍進してきたこともあり、軽二輪車の生産は1位:ホンダ、2位:ヤマハとなっていたが、目黒製作所は続いての3位。目黒製作所の全盛期といえる時期だった。
1950年代に軽二輪市場を開拓した「メグロ・ジュニア」シリーズ
500ccと250ccの狭間を埋めるためラインアップされた「メグロ・レックス」
高性能で白バイに採用された並列2気筒「メグロ・セニア」
原付市場にも「レジナ」「キャデット」「アミカ」で参入した目黒製作所
大型車のイメージが強い「メグロ」だが、原付市場にも進出している。
1955年(昭和26年)にOHVシングルのレジナE1型を投入するも、生産ラインの限度と価格面から台数的には翌年の1992台が精一杯であった。
1958年(昭和33年)にはOHCの「E3型」を投入するが、「高回転じゃないとメグロらしくない」とユーザーに敬遠されてしまった。
大ヒットとはいかなかった、125ccシリーズ「メグロ・レジナ」シリーズ
1960年(昭和35年)にはOHVの「キャデットCA型」を投入。生産体制も整い、この年単一モデルで年4640台の生産量に達した。しかし目黒製作所としては躍進していても、台数的にはメイハツ、サンライト、ライラックに続く業界10位であった。
なお、同年の目黒製作所は自動二輪車702台で業界2位、軽二輪車9197台で業界4位という規模であり、1958年(昭和33)年に資本金を1億8000万円、1959年(昭和34年)にさらに3億円増資して、新開発した500cc並列2気筒のスタミナK型/50ccアミカMA型の増産を図り、攻めの姿勢へと転じようとしていたタイミングでもあった。
スポーティ路線の125cc「メグロ・キャデット」シリーズ
2ストローク50ccエンジンを搭載した「メグロ・アミカ」シリーズ
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