目次
エイプ、ズーマー、バイト、ソロ、PS250、NP-6……
ホンダは2001年からの4年間、異色とも言える一連のモデルを開発した。
これがいわゆる「Nプロジェクト(以下、Nプロ)」である。
Nプロは、バイクファンやベテランよりも普通の「若者」をターゲットとし、そこへ新しい価値を持った商品を継続的に送り出すという目的を持ったチームで、主に若手の開発者で構成。
技術面においての革新的チャレンジは得意だが、商品パッケージとしては保守的なホンダの中で、Nプロは異形であり異端であり、あるいは掟破りの内容だった。
この連載は、そんなNプロのメンバーたちによる破天荒なバイクづくりの物語であり、まったく新しいバイクを創出するための 「心の在り方」を考える少し大人のストーリーである。
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子
新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる
Nプロ100%
ホンダのアンテナショップ兼Nプロの調査拠点であるH Freeが原宿に開店し、大変ながらも異様な盛り上がりを見せていた2003年春、この頃になるとNプロ第5弾となるPS250の開発もまた佳境を迎えていた。
ここまで、新たな若者ユーザーの獲得を狙ってApe、ZOOMER、Bite、Soloと原付(50cc)モデル4機種をリリースしてきたが、PS250はそれまでの原付モデルによって「バイクの世界に飛び込んできたお客様に、より本格的なモーターサイクルの世界を提供する」ということを念頭に企画された250ccモデルである。
そもそものコンセプトは、ATMC(オートマチック・モーターサイクル)だ。スクーターの操作しやすさや乗りやすさに、モーターサイクル(要するに原付よりも大きな普通二輪の領域)の持つ魅力を表現しようというものだった。
「考え方としてはスクーターの便利さと、モーターサイクルの楽しさの良いとこ取り──これまではNプロとして二輪への入口となる原付を一生懸命やって、お客様を二輪の世界へ誘うことができた。次はそのお客様が軽二へステップアップしていけるようなモデルを作り、二人乗りも含めた本格的なモーターサイクルの世界を提供することで、より深く二輪の世界に踏み込んでもらおうという構想だった」というのは、NプロでPS250のデザインPLを担った立石 康だ。
ここでのトピックは、ようやく100% Nプロ自身による企画が実現したことだろう。それまでの原付4モデルは、いずれもそのアイデアの源流はNプロ以前の若プロや若者研究の段階で生まれている。純粋にNプロによってゼロから企画構想されるモデルはこれが初めてのケースとなったから、自らの意志を100%投影できるとあってNプロメンバーの意気込みは大きかった。それは、言わば2000年5月のNプロ発足以来の悲願であり、ついに我が世の春の到来である。
この企画は、Nプロの「約束」とされていた当初の3機種(Ape、ZOOMER、Bite)の開発と並行しながら、それらに続く「次のモデルをどうする?」というお題の下、Nプロオリジナルコンセプトとして、メンバー全員によるアイデア出しと絞り込みから始まった。
結果的に決定したのは、スクーターの機能にアメリカンモデルのスタイリングを組み合わせたアイデアだった(ベースモデルにはフォーサイトを使う)。
「スクーターユニットを使うことが前提なので、構造的に後輪のホイールサイズを大きくはできない。このため(前輪を大きくすると)どうしても後ろ下がりになってしまう。そのシルエットで実現可能なのはアメリカンクルーザーかなと考え、そこにこだわった」(立石)
そのお題目は「イージーオペレーション、ツーリング(風を浴びる爽快感)、カスタム」だ。ものすごくシンプルに綺麗にまとまったそれは、ある意味で絶対的な要素を並べた大言壮語にも近い発想に思えてしまい、今、振り返ってみればすでにこの時点で一抹の不安を感じないわけでもない……。
何しろ、これを考えて作るのはNプロという、若いが故に野放図な集団である。それまでも、しっちゃかめっちゃかな開発を行ってきたのだから、ひと筋縄で行く訳がない。掲載した図案や画像からご理解いただけると思うが、その発想はフリーダムであり、ぶっ飛んでいる(社会通念ではそれを「クルクルパー」などと呼ぶこともある)。
しかし、彼らの志はあくまでも高かった。その特徴は以下のとおり。
- ビッグスクーターのようなボリュームは抑え、モーターサイクルとしてジャストサイズ。ゆったりと楽そうに見え、バイクらしさを強調するアメリカンスタイル
- バイクらしい質感のあるパーツ群
- シート高700mmと股下スリムで足着き抜群
- フルフェイスヘルメットが入る大容量ユーティリティースペース
- 250ccベルコンエンジンで走りも十分、カスタマイズもしやすい
- 前後ハンドルブレーキ(ABS)
- 足元スッキリ。ポジション自由度の高いステップボード
- チェンジペダルやブレーキペダルがないので、お気に入りのスニーカーでも大丈夫
- メインスタンド、サイドスタンド標準装備
「ざっくり言うとビッグスクーターATの、イージーオペレーションを考えた。それで、ビギナーだけではなく、スクーターユーザーの乗り換え需要も取り込めないかと考えた。他方、当時はビッグスクーターが流行ろうとしていた時代で、『ビッグスクーターってなんかデカイな、なんでこんなにデカイの?』と感じていた。もう少しコンパクトにできないものかとも考えた」(立石)
その具体的な検討風景は以下の画像である。フォーサイトの車体に、マグナ250やVRXの燃料タンクを乗せて行われた。当然ながら、それを大真面目に検討しているわけであるが、そのピュアな発想や彼らの姿は子供のようで、微笑ましくすらある。
「フォーサイトにこれらのガワ(ボディパーツ)を被せたらどうなるのか、『とりあえず形を見てみよう』と、Nプロのスタジオでまずは『乗れる現物』を仕立てた」(立石)
現物での成立性とスタイリングの検討を同時に行っていたのだが、通常の開発では、車体の基本構成が決まる以前のこの段階では誰も集まらないものだ。しかしNプロでは、実際にどうなるか、全員で確認しないとプロジェクトは動かなかった。ひとつ屋根の下にいて、最初から分かりやすくプロセスを共有するのがNプロのやり方だったとも言える。
そのデザインにはデリカシーがない
そしてデザインPLだった立石の受難がここから始まる。
「すごい数のスケッチを描いたものの、なかなかうまく行かなかった。何もないような、例えば機能のないただのカバーといった部分には、デザインの意志が入りきらなくて『このカバーは何?』と自問自答するような状態だった」
おまけに、それを捉えたNプロのボスである中野からは「お前のスケッチには魂が入ってねぇ」と言われ始めたのである。
「だいたい、そういうしんどい時に限って中野さんは最悪な物言いをしてきた。『デリカシーがない』とか、『まるで教育受けた人の絵のようだ』とか平気で浴びせかけてきた(笑)」と言うのは、構想の途中からNプロメンバーとなった久米泰生(前章Soloのデザイン担当)だ。
「それでもう泣きそうになって、内心では『そっちこそデリカシーがないだろ!』とツッコミながら、チクショー!という感じだった。結局、自分がうまく行ってないことを見透かされたようなところがあり、本当に悔しかった」(立石)
中野の凄いところは、その批判に対して屁理屈などで言い返せないような、感覚的で直裁的な何かを持っているところだったと久米は言う──このようなやりとりは、この後にも登場する。
そして、立石が悩んでいるこの間に、本家デザイン室の考えた代替案のスケッチが浮上してきた。その時点の車体構想で、立石のスケッチと並行して制作されていたものだと言うが、それが浮上してきたのは、Nプロに関わっていたベテラン達の采配である。
「悔しかった。中野さんは『これでいいじゃないか』とか言うし、本家デザイン室のモデラーはそれでクレイのスケールモデルをどんどん進めちゃうし。自分で納得できるものが出来ていなかったので、中野さんのひと言で簡単に折れてしまったが、出てきた代替案に対して実現した時にどう思われるのかという不安があったので、とにかく『ちょっと考え直します』としか言えなかった」(立石)
だが、この最初の車体、アメリカンスタイルは「乗れる現物」の段階でボツになった。
「自分としては乗って悪くはないなと思っていた。エンジンは静かでモーターみたいにスーッと走り出して、前からは風がたくさん当たって気持ち良かった。何か地面の低いところを浮遊しているような感じがあった」(立石)
ところが、試作車をみんなで乗るなどして検討した結果、開発のベテラン達を中心に「面白いが、見た目の期待感と乗り味があまりにもアンマッチ」という意見が打ち上げられたのだ。「その外観からイメージされるのはドコドコ感がある乗り味だが、それを期待して乗り出すと、ヒュイーンと走るのは新鮮と言うより違和感がある」ということだった。
おまけに「自分もそう思う」という意見もチーム内で出ていたので、「お客様もそう感じるかもしれない。ATMCというコンセプトはキープしながら、違うアイデアを考えないといけない」と、表現方法を変更することになったのである。
そして、この局面を打開するために、再び内部でコンペが行われる。今度はNプロのメンバー全員を大きく3つのグループに分けて、アイデアを募る形となった。結果としては、それを基にしたのがPS250の具体的な始まりだった。そこから出てきたものは、以下の3方向だ。
「カプセルモービル」
立石やApeでLPLを務めた中西たちのグループのアイデア。「何ができるかに非常にこだわっている。自分がやり直したのは、苦労したタンク下のスペースに機能を持たせて、どのような価値が提供できるかという点。そういうことが厳格に問われていたのがNプロだった」と立石。で、スクーターは中に荷物を収納する、それに対してモーターサイクルは中に荷物をぶら下げるという考えに行き着いた。
「おもちゃ感」
ZOOMERでLPLを務めた道坂たちのグループ。これはテスト担当の岡本のスケッチ。(1)ユーティリティボックス脱着可能で、日によって違ったデザインを楽しめる。(2)シート下、引き出し式開閉によるおもちゃ箱感。(3)フォーサイトのフレームの基本流用が可能。収納物の選択肢の広がるような大スペースを考え、(3)を考慮しつつ、練り直しを行った。
「ミラクルシート」
久米やBiteでLPLを務めた榊たちのグループのアイデア。可変式シートによるシート角度を変えての使用法3段活用である。「形は色々あるだろうが、ホンダとしては機能を形にするのがスタイリングのセオリーで、見た目でその楽しさが伝わってくるというもの」と久米。今でこそもっともらしい事を言っているが、彼の描いたプレゼンスケッチには、以前に紹介した「若モンパル」と同じように“なめくさったアンちゃんキャラ”が登場しており、それが面白すぎるので紹介する。
ここで表現したかったのは、「ミラクルシートで生まれる多彩なスペース=若者が自由にできる土地を買う」ことであり、「○○できそう」、「オレならこうする」というイマジネーションの喚起であった。当時の原宿などでの駐輪状況から、ボディがバリバリに割れたスクーターを散々見ていたこともあり、ラフ・タフ・ブコツで取り回しが良い「道具」に徹したデザインの持つ世界観を、“なめくさった”イラストがめちゃくちゃ分かりやすく表現していると言って良いのではないだろうか。
そして、このミラクルシートこと可変式シートのアイデアが採用され、PS250の大きな特徴となったのである。シートは可変、フロント周りはデザインされ、後ろ周りは基本フォーサイトのフレームのままだ(左右を結ぶループが追加されている)。そしてヘッドライトの四角一眼はなんとなくMOTORA(1982年発売の積載機能に特化した原付モデル)へのトリビュートという気分だったと言う。ネーミングのPSは「ピックアップ・スクーター」の略称だが、「ここまではペットネームだったが、原付から250ccになることもあるから普通の車名でいいと思う」という立石のひと言でPS250に決まった。
「そうしたら、中野さんが『ピックアップ・スクーターって言うけど、これじゃただのトラックじゃないか。ピックアップとトラックの違いがちゃんと出ているのか?』と。もう『イヤなこと言うねぇ~』って感じ(笑)。ユーティリティーなど遊びの部分と、積載効率など商用の部分は違う、これは商用にも転用できるだろうけど、テーマはあくまでも遊びの部分だと自分たちなりに再確認した。そこで、『ピックアップとトラックの違いは居住性で、シートが立って背もたれになる』と中野に説明したところ、『オッケー、分かった』と了承を得た」(立石)
前述の試作実走車で露見した、スタイリングと乗り味の違和感をどう埋めるかという点では、結局どんなバイクに形を寄せていっても違和感は残る。最初のコンセプトに戻って、風を浴びる気持ちよさとかツーリングできるとか、基本イメージを守ったまま、ライダーの視野が広がるスタイリングを実現できれば、乗り味とのアンマッチはなくなるのではと考えたのである。
シートを動かすと何かが起きる
さて、話はその少し前に戻って、みんなで試作車を乗り回して検討していた時期に前後して開発LPL(ラージプロジェクトリーダー、開発責任者)が決まった。上層部から指名されたのは入社4年目の中林俊一である。それまでは、進展国系のコミューターの車体設計に携わっていたという彼の登用理由が、これまたけっこうご無体だ。
「Soloの開発をやっている真っ最中の頃、自分と仲の良いメンバーがいたので、ちょくちょく顔を出していて、なんとなくそこにフェードインしたような感じだった。そうしたら、『見ていたんだから知っているよな? お前が次のLPLをやれ』と言われた。普通は車体を10年以上やって、何かの拍子にLPLに指名されるものなのに……。そもそも、当時のNプロ公募資格が入社5年なので、入社4年の自分には参加資格がないと思っていた。だから、もう驚いちゃって、『え、そうなんですか? 本当に自分でいいんですか? それにしても、どうしよう』って感じだった」と中林は振り返る。
実は中林は試作車にもこっそり乗っており、まさに『外観と乗り味が違う。これはいかがなものか?』と内心思っていたのだった。よもや、その気持ちを見透かされた訳ではあるまいが、きっと「やらせてくださいオーラ」が出ていたのだろう。自ら渦巻きに飛び込んで来たようなものだから、まったくもって中野の思う壺であり、飛んで火にいる夏の虫である。
「メンバーのテスト担当が発泡ウレタンをガシガシ削って造形しているのを見ていて、『あ、これだな!』と思った。もっとも、再コンペの時はまだ加入してなかった。加入したいな~とは思っていたが(笑)、そうしたらいきなりLPLに指名されて今度は一気に奈落の底に落とされた。本当に悩んだ。製品には責任を持ちたいし、ターゲットになっているお客様には絶対の自信を持ってお勧めしたかったので、そのためにはどうすれば良いかと。最初に『みんな助けてくれるから大丈夫!』なんて言われても半信半疑だったが、実際にベテランたちも一生懸命フォローしてくれた。それで何とかなった」(中林)
LPLの主な仕事は、仕様の決定とコストおよび日程の管理=全体のまとめと言っていいだろう。それが入社4年目の若者の業務として降りかかってくるわけであり、ここでも受難に見舞われるのはお約束である。中林の「何とかなった」という言葉は、場合によっては何ともならなかった可能性もあったということに他ならない。
大きな課題は、特徴的な可動式シートとVA(バリュー・アナリシス=コスト評価、つまりは金勘定)にあった。
まずシートだ。PS250のシートは寝かせた状態=フラットと、起こした状態=バックレストの2段階に調節でき、前後90mmの範囲で10段階にスライドするものとなった──何やらBiteの時と同じような話に思えるのは気のせいではない。シートを動かそうとすると、必ず一悶着起きるのだ。
「シートを立てて背中を当てて乗るわけだが、自分は163cmと小柄だがNプロには180cm超えの者もいたから『両方乗れるようにしよう』と、シートスライドを設けた。そのために、シートの機構に関してもアイデアコンペを行った」(中林)
「走行中にシートが動かないようどうする?とか、転倒を想定した設計とか、内部要件クリアには苦労した」(中林)
結論としては、信頼と実績のある四輪用のシート機構を応用しようということになった。バイクとは比べ物にならない個数を生産する四輪ならその母数が違うから、コストもこなれて合理的だと考えたのだ。
「そうしたら、依頼しようとしたサプライヤー(部品製造メーカー)さんから“生産を辞退させてください”との連絡が来た。二輪用に仕様を変える必要があり、何十万個と作る中で数千個だけのためには対応できませんと言うことだった」(中林)
さらに、当時の研究所のトップからは“サプライヤーさんに面倒な注文をして、フォルツァの邪魔はしないでね”と釘を刺され、挙句に上司だった設計メンバーがフォルツァの開発に連れて行かれるというオマケ付きである(この当時、本家側が威信をかけてフォルツァを開発中だった)。
このように、開発チームにとっては、いったい何がミラクルなのか分からなくなってくるシートであった。それに対して発案者でもある久米のコメントは能天気だ。
「シートを立てた際のロック機構は、四輪車のエンジンフードを開けた時と同じようにオフセットされる配置で、それに対し『強度的に不安だ』、『いや大丈夫だ』などと進めながら、その機構を皆が『根性棒』と呼んでいたのは傑作だった。もう、追い込まれた状況に対して困っているのか、楽しんでいるのか分からない(笑)」
「まあそんなこんなで(笑)。最終的には、シートリクライニングに関しては四輪並みの角度アジャストはいらないことがテストでわかったので、寝かす・立てるの、2段階にして解決。シートのスライド機構はアクティの物をそのまま流用した」(中林)
Nプロの金勘定は誤算だらけ
VAに関しては、例によってシート表皮の加工やステッチなどの細かな部分で積み重ねていくのはお約束だったが、「ここは、けっこうコストを圧縮できるだろう」という当てが外れたのは、車体そのものの構成である。
「フォーサイトの大きな外装を外して、そこを小さいカバー類としたのだから安くなるだろうと思ったら、とんでもなかった。パイプフレームが露出することになったため、溶接痕を慣らしてバフ掛け、塗装して外観を仕上げると、それなりのコストがかかると判明したのは見通しが甘かった」(中林)
誤算は他にもあった。オプションのウィンドスクリーンを付けると、ラジエーターへの冷却風が不足してしまったのだ。解析結果に基づいて、風の流れを適正化するためのエアスクープをスクリーンのセットで付けることでそれに対応した(カブのレッグシールドと同じで、スクーターでも外装を外すと冷却性能や最高速が落ちる場合があるのだ)。
「熱対策の面で言えば、ベルコンケースというものは走行中に温度が上がるため、実は設計的に扱いがデリケートな部分。これもまた、カウリングや外装の形状などで温度の変化幅が変わるので、フォーサイトから駆動ベルトの材質を変えて対処している」(中林)
実のところ、PS250の最高出力は19馬力で、ベース車両のフォーサイトより2馬力ほど低い(発生回転数は同じ)。これは、開発年代の違いにより、時代の新しいPS250ではそもそもの認定値の測定方法が変化しているのが根本理由。そこに、ベルト材質の変更によるフリクションの変化が加わったということだ。ベルトの耐久性はフォーサイトから格段に向上しているので、この点はトレードオフということになろうか。
手間という点では、イエローの車体色も厄介だった。使用する塗色にもよるが、基本的に明るい色の場合は下地と上塗りという2回の塗装プロセスが必要となる。
「でも、フレーム塗装ラインは『往き』の一方通行で、もう一度塗るためにリターンさせるような工程レイアウトではない。そのために、下地を塗ったフレームを台車に乗せて人力で運ぶことになった。そこは熊本製作所が『こっちでやるから大丈夫だ』と快く引き受けてくれたことを覚えている」(立石)
PS250における、知られざる格闘の痕跡はまだある。実はタイヤが専用設計となっている。この規模の開発だと、開発期間から通常はそこまではできない。
「ちょっとブロックパターンっぽいタイヤが欲しくて、タイヤに関しては新規パターンにした。でも、本来タイヤまでは手を入れられない開発期間だったので、試作を頼んでいる時間がなく、自分たちでタイヤカッター(グルービングマシン)を使って溝を彫った。欲しいパターンを描いて紙にコピーして、それをタイヤの表面に貼って自分でカットする。そんなこともやった。『立石さんはカッター使うのが上手だから、できるよねぇ?』なんて言われて。いや、それは相手が紙だった場合の話だろうと」(立石)
「何しろ、タイヤメーカーで試作対応ができないし、操安評価次第で中身まで変わることは当たり前にあるので、 『中身の構造までは絶対に変えません』と約束して、IRCさんが新規パターンで造ってくれた。結果、スクーターのニュアンスよりも、モーターサイクルに近い感じになった。オフロードっぽいパターンを目指しつつもオンロード性能を満足させる、今のアドベンチャーモデルのような方向性のタイヤは当時まだなかった」(中林)
給油口のあるガソリンリッドの蓋にも、ひと工夫がある。当時、ビッグスクーターではボタン操作でリッドの蓋が静かに滑らかに立ち上がるものが増えていたが、それにはけっこうなコストが必要だった。
「もちろんPSは、そんなに高い売価設定ではないから、一般的な家具についているような、パチンッと蓋などを止める嵌め込み式を採用し、蓋を上から手で掴んで開閉する形にしてパカンッと跳ね上がらないようにした。リッドの蓋が安っぽく跳ね上がるような質感のなさが嫌だったからだ。これに関しては『よくやった』と中野さんに褒められた」(立石)
どうしたら喜んでもらえるか
このように、言い出した以上は少しでも理想を実現するために、「自分で自分の首を締める」という名の創意工夫で何とかするという行為は、もの作りについてまわる。それまでもそうだったように、いわば目的のために「自分から喜んで2階に上がり、登った梯子を自分で蹴倒し、ついでにガソリンも撒き散らして最後に下から火を点けてもらう」というのがNプロの生き様であり、ある意味クリエイションの極みである。こうして完成したPS250は満足できるレベルになっていた。
「走ってみると、ネイキッドバイクよりも風を浴びている感が実感できた。レッグシールドのような部品の役目は風除けだから、そういうものを思い切って外したので風が当たる。走っているぞという気分が高まる」(立石)
「その当時、背もたれに背中を当てて走ることに対して、操安におけるノウハウが少なかった。テスト屋さんに『は? 冗談だろ?』と言われもしたが、結果的にヘッドライトのところから伸びているパイプがフォーサイトと異なる剛性バランスを担っていて、それで操安が向上した。ZOOMER以降のお客様を取り込むということで、モーターサイクル的な美味しいところが具現化できたと思っている。」(中林)
「そのパイプは、最初はスタイリング上の要求だったが、結果として操安に貢献した。それと大きな外装がないことで抵抗がなくなったのか、車体がロールした時の挙動がコントローラブルだった。乗り手の操作に対して一体感が醸し出されたと思う」(立石)
「当時の社長だった福井さんが役員試乗で、『お前らの作ったのが乗って一番面白いぞ』と言ってくれたのが嬉しかった。シートを起こしていても問題なく普通に運転できるし、バイクみたいに腰で乗る感じとは違ったユルさがあった。何しろ、全身を風にさらす爽快感が面白くて、自らPS250を買って20年間楽しませてもらった」(久米)
もちろん、完成した商品=PS250と街との親和性や存在感など、使用環境との折り合いができているかの確認も行った。発売前に街に置いてみたり、走ってみたり、自分たちの狙いが達成されているかどうかを確かめるのもNプロである。
PS250の発売は2004年6月。その報道発表会もユニークだった。「若者が遊ぶ現場をツアーするような発表会」という仕掛けである。それは、渋谷の街の中で何箇所か拠点になるショップやカフェなどを借りて、そこを取材者がツアーするように巡って、その中のひとつでエンジニアによる1対1の技術説明を行うというものだ。
ターゲットとする若者からすると、そこはただの日常生活の場であるが、そのリアルな生活感がNプロの商品の裏付けであることを訴求したかったのだ。すでにH Freeを開店し、Nプロ内でも現場ムーブメントが炸裂していた頃だから、まあ調子に乗ってどんどん物事が回るわけである。
「インタラクティブ技説とか言って(笑)、ターゲットの現場でやるのはよかった。Nプロの部屋とか雰囲気をそのまま持っていこうと考え、みんなの遊び道具をそのまま持っていったし、発泡ウレタンで作った検討車とかも置いたことで、すごく臨場感があったと思う。遊んで作っているのが嘘ではないことが伝わったかなと。写真を撮影するにもイメージ通りのロケーションになっているわけだから、それも良かった」(立石)
「それまでの発表会とは違って、開発していたメンバー達がそれぞれの場所で対面して報道陣に自分たちの言葉で話ができたことで、より確実に自分たちの想いが伝わったと思う。それをメディアが文章にしてくれたので、すごく嬉しかった。その結果、ある記事では『都会でバイクに乗っていて、こんなに空を見たのは初めてだ』と書いてもらえた。自分たちが目指した『フリーダム』が伝わって、とても印象的だった」(中林)
素晴らしいインプレッションである。「東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」と謳ったのは高村光太郎の智恵子抄だが、彼女もPS250に乗れたらよかったのにと思うくらい、狙いどおりの反応ではないか。
このようにNプロ自身で構想(=何を何のために?)し、開発(=どう作る?)したのがPS250の物語だ。ところが、である。発売後のPS250は当初伸び悩んだのである。
「おじいさんとおばあさんが二人乗りしていた」とか、「魚河岸で使われていた」とか、そういう複雑に嬉しいような風聞はあったのだが。そこで早速H Freeにおいて実車を前にした聞き取りを行った結果、「MOTORAというより、でっかいZOOMER」として、通常のマイナーチェンジではカラーリングくらいしか変えられないところを、ZOOMERタイプのデュアルヘッドライトに変えちまえとなったのである。
これにも伏線があって、実は最初に角目1灯を決める際に、中野は最後まで「本当に角目でいいんだっけ?」と言っていたし、おまけに北米仕様(商品名BIG RUCKUS)は、現地のレギュレーションや要望もあって最初からデュアルヘッドライトが採用されていたのだ(国内ではOP設定だった)。ということで、即座にデュアル化は決まり、発売後1年半の2005年12月にマイナーチェンジした。
デュアルヘッドライト採用と併せてカラーリングの変更も行われ、このマイナーチェンジ後には販売が上向いたが、決定的なヒット作には至らなかったのは残念である。ひとつは当時の250ccスクーターよりは僅かに安価であったものの、若いターゲット層に対しては約50万円の価格がネックになったのかとも感じる。それに、Solo同様やはりその新規性や独創性が生む楽しさの認知が広がる前に、2007年8月に生産中止となったのだ(直接の理由は厳格化した排ガス規制対応のタイミングだった)。
何しろ、いまだに熱烈な愛好者がいたり、(社会情勢とそれに付け込んだ商法があるにせよ)中古車市場ではその価格が平均50万円であったりと、その人気はカルト化している。他のNプロモデル同様、いま売れば……というやつである。あれから約20年の間に二輪業界が進化したのか退化したのか分からないが、Nプロモデルの志の高さと、他モデルには決して差し替えられない独創性は、現在でも立派に通用すると思うのである。
最後に、中林の言葉と、その愛車の写真で締めくくろう。愛車はその当時、H Freeで展示された仕様のPS250である。まさに自他非分離の証、というよりも、もはや公私混同の象徴だ。
「現在の自分は車体設計としてRテーマにも携わっているが、そこでNプロでの経験は大いに役立っている。お客様の心を考えた将来を考える仕事なので、ここでも自他非分離の考え方は重要。どうしたら喜んでもらえるか、こんなモノはどう思うのかという軸足でアイデアを出すことは基本であり、もし自分がその現場にいないのなら、そこにいる人間に聞けばいい。そうやって行動と思考のサイクルが速く確かになる。そのことがNプロで学んで手に入れたものだと思っている」
レポート●関谷守正 写真●ホンダ 編集●太田力也
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子