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21世紀ホンダ破天荒伝説「Nプロジェクト、その全貌」 第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE

エイプ、ズーマー、バイト、ソロ、PS250、NP-6……
ホンダは2001年からの4年間、異色とも言える一連のモデルを開発した。
これがいわゆる「Nプロジェクト(以下、Nプロ)」である。
Nプロは、バイクファンやベテランよりも普通の「若者」をターゲットとし、そこへ新しい価値を持った商品を継続的に送り出すという目的を持ったチームで、主に若手の開発者で構成。
技術面においての革新的チャレンジは得意だが、商品パッケージとしては保守的なホンダの中で、Nプロは異形であり異端であり、あるいは掟破りの内容だった。
この連載は、そんなNプロのメンバーたちによる破天荒なバイクづくりの物語であり、まったく新しいバイクを創出するための 「心の在り方」を考える少し大人のストーリーである。

第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子

真のエキスパートは、不可能の壁を
打ち破ることに無常の喜びをもつものだ

原宿に現れたHマーク

ちょうど20年前の今時分の話である。
東京・原宿にはキディランドという老舗かつ有名な玩具店がある。当時、よせばいいのにマイホームパパ(死語)を気取っていた筆者は、豚児とその母親と一緒に時折、おもちゃを買いにキディランドを訪れていた──
その日も筆者は、彼らのご機嫌取りも兼ねてキディランドほか、原宿の散策という名目の家族サービスに努めていた。
キディランドに向かって左隣のビルの横には旧渋谷川遊歩道路という道がある。新宿御苑を源とする渋谷川の暗渠に設けられた道で、明治通りを渋谷から原宿に向かい、途中で右に逸れて表参道と直交する。このルートを通称キャットストリートと呼び、以前からオサレ人種の集まるエリアだった。ここが、この連載で頻繁に出てくる呪文の“渋原”=渋谷〜原宿の原宿パートである。
この日、キディランドを後にした筆者は、そのキャットストリートが表参道に突き当たろうという直前にある建物(要するにほぼキディランドの真裏)に、ホンダのHマークをあしらったバナーがひらひらしているのを見つけた。「なんだ、これは?」と思って近づいてみると、どうやらホンダのアンテナショップのようだった。しかも、半地下の店舗にはバイクではなく、アパレルを中心にホンダロゴの入った雑貨などを売っている。
「さては、ホンダの新機軸か? はたまた、とち狂ったのか?」と、そのファッショナブルな店構えに新鮮な驚きを感じると同時に、それまで原宿には馴染みのなかったHマークやウイングマークが醸し出す、そこはかとない違和感に当惑したのも正直なところだ。当時、二輪メディア業界から遠ざかっていた筆者は、この店の開店を知らなかったため、ニュートラルな気持ちでそれを認識できた。
そして、バイクなんぞにまったく興味がなく、かつオサレさんを気取っていた豚児の母親(当時32歳)は、「へえ。こんなこと始めたんだ。ホンダもやるわね」と、なぜか感心していた──今考えると、こういったリアクションの喚起こそが、ある意味でホンダがこの店を始めた狙いのひとつであり、「思う壺」だったのだ。

実は後日、この店が気になってしまった筆者(当時41歳)はひとりで店を訪れ、その時は女性客が多かったこともあって思わずTシャツを買ってしまった(意味不明)。このことはあまり「思う壺」ではないだろうが、そんなことよりも、それから20年経った今になって、この原稿を書いていることの方が驚きである。

キャットストリートの角地にあり、目立たないようで目立つ半地下の店舗。ホンダがアパレルを売っているというより、アパレル販売店がホンダブランドの商品を売っている印象だった。ちなみに、同じ建物の2階には当時よく知られた女性向けファッションブランド『アナスイ』が入っていた

若者の価値観をつかむための現場

2003年4月25日オープンしたこの店の名前はH FREE=エイチ・フリー(エッチ・フリーではない)。仕掛け人はもちろん、あの中野耕二上席研究員(当時)であり、その運営はNプロを主体にしたものだった。店舗開設のそもそもの動機は以下のような発想による。要は「若者研究によりその指向性にマッチした商品を作ってヒットもしたけれど、その次を創るためのアイデアはどうするんだ?」ということだ。

過去(反省)
・ライダーには強かったホンダの体質
・若者のバイク離れ⇒価値観のすれ違い
・「若者研究」によりバイカーの価値観を認識

現在(成果)
・「自他非分離」による、若者の心をつかむ商品の開発
・DDM※1調査による商品検証
・「今=NOW」はつかめたが「次=NEXT」は?

※1 ダイレクト・デザイン・マーケティング

未来(課題)
・次のアイデアやコンセプトの確証を本音で得るには!?
・どうすれば……次が見える?

「今までは現状分析でトレンドに追いついた。定量調査・定性調査、色々やってきた。お客様にモデルを見せたり、座談会をしたり、街頭でアンケートしたり……効果もあるが、もっと価値観の『ハラワタ』をつかみ出すやり方はないのか?」というのが、中野を始めとするNプロの考えだった。
確かに中野はNプロジェクトという組織を作り、そこからヒット商品も生んだが、それをもっと推し進める必要があるというのが中野の気持ちであり、それは過去のヒット作に習って商品が自己模倣化してしまうことへの危機感に基づいていた。
以下は当時Nプロを題材に作成された研究レポート※2において、H FREEを描いた部分からの引用・要約である。

※2 「H FREE」に関する記述については,以下の文献を参照している。
●谷地弘安(2004)「ホンダ─若者バイカー」と「Nプロジェクト」横浜国立大学経営学部ワーキングペーパーシリーズNo.204
●同(2006)「ホンダNプロジェクト─知識創造の『場』を徹底追究する」(大薗恵美、児玉充、谷地弘安、野中郁次郎著『イノベーションの実践理論』第2章所収、白桃書房)。
以下引用部も同じ。

若者研究を徹底的に行い,ようやくバイカーの気持ちを捉えることができるようになった。しかし,バイカーのトレンドも絶えず変化している。一度成功すると、そこからまた観念の固着が生まれ、次のアイデアやコンセプトがマーケットから乖離してしまう。開発者とユーザーの間には、気を抜くと簡単に空隙が生まれてしまう。これは開発者やマーケッターにつきまとう悪夢だ。
どうすればこの悪夢から逃れることができるのか。どうすればNプロは絶えずバイカーをフォローできるのか。若者調査を定期的に行えばそれは解決できるのか。そういう危機意識から中野が行き着いたのが、開発者が絶えず研究所の外に出てユーザーと共有する場をつくるという構想だった。
「マーケティングの究極をやってみたいと考えた。いままでは『DDMと称して,最初に行った調査をもとにまずスケッチを描き,それをお客様に見せて反応を見て,次にモデルを作って,今度はそのモデルで調べてといった,いわばステップ・バイ・ステップで調査するマーケティングをしてきた。じゃあ、その先にあるマーケティングは何だろうかと考えた結果,出てきたのが『Everyday DDM』という概念。それは開発メンバー自身が,日々お客様がモノを買う現場に身を置いて,価値観の変化を直接つかむものだった」
(引用終わり)

このような考えに基づいて、中野はアンテナショップであるH FREEをNプロ主体で立ち上げようとしたのである。しかも、このショップはバイク販売店ではなく、メインとなるのはホンダブランドのアパレルや雑貨であった。この研究レポート※2において、中野はその理由も述べている。

「若者の価値観をつかむのに最適と選んだ原宿では,バイクだけ置いてもお客様は集まってこない。若者の価値観をつかむことが目的であったので,それならバイクに限ることはない。Tシャツやパンツ,キャップ,ネックレス,シルバーの指輪とか,いまの若者が好む雑貨やアパレルも置いたって良いだろうと考えた。
一方で,まわりを見ると,1万円近くするTシャツがブランド次第では値引きもせずに売れている。なんでそんなモノが売れるのか開発者には分からない。じゃあ店に置く雑貨やアパレルもオリジナルのものとして,『ブランドとは何か?』を勉強してみたくなった。そうやっていろいろなモノが買われていく現場にいることによって,いままで見えなかったいろいろなものや価値観が見えてくるのではないかと思った」
ユーザーとのインターフェイスとして,俗にいうアンテナショップは珍しくない。しかし,Nプロメンバーという開発者が店内でユーザーと接することが重要である。例えば,プロジェクトのなかで提案されて最終まで残らなかった案が数多くある。しかし,果たしてそれは正しい判断だったのだろうか。研究所のなかに果たして情報が集まっているのか。そこで,そうした案を再現してユーザーに直接提案してみる。情報量が豊富なショップという現場で研究員が検証するのである。
(引用終わり)

構想段階でのスケッチの一部。そのスタイルは現在の販売店における形態に近かったことが分かる。今ではパソコンを使ったコーディネイト提案は当たり前、大きな姿見でバイクに跨った自分を確認でするというアイデアも普通に考えられる

考えたのはいいが、いろいろ大問題

それまで、自動車メーカーの「アンテナショップ」といえば、大手広告代理店による販促手法として、それぞれの対象エリアにカフェやギャラリーなどを期間限定で開設し、そこに車両を展示するパターンが普通であった。
それに対してH FREEは、ホンダ純正のアパレルや小物、雑貨、そしてマシンのカスタマイズ用パーツなど、より具体的な商品を通してバイクのあるライフスタイルを提案しようとしたのである。そうすることで、文字どおり「毎日のように直接ユーザーの嗜好とマーケットの動向に触れ、それを開発にフィードバックすることで、よりスピーディーでより的確な商品開発をする」、それがH FREEの狙いだった。
そのお題目は以下のとおり。

<目的>
新価値創出プロジェクトとして若者研究から立ち上がった『Nプロ』のさらなる進化を目指し、トレンドエリア(原宿等)に拠点を設立する
1:現場最前線におけるダイレクトな情報収集とスピーディな現物反映を行い、素早いPDCA※3で新価値アイデア想起とその確証が取れる構造を作る(Everyday DDMによる若者価値観研究の実践拠点)
2:若者に対するホンダ二輪のプレゼンス向上に繋がる情報発信を行う

※3 Plan(計画)、Do(実行)、Check(測定・評価)、Action(対策・改善)のプロセス

これを分かりやすく翻訳すると、以下のようになる。
原宿は街全体が服飾・雑貨・美容室という流行発信地であり、アパレル店員・美容師など業界関係者がセンスのいいバイクのトレンドリーダーとなっている。しかも、ファッション業界の構造として「売り手・作り手・仕掛け手」が一心同体となって、スピーディなトレンド創造を行っている。それは業界内に留まらず飲食・音楽・ストリートスポーツなどとコラボレーションし、相乗効果を生みながら若者文化を形成している。
文化が違うバイク業界では、これまでこのようなアクションが不得意だった。しかし、若者にとってのバイクは、ファッション業界の構図に入るべき流行商品へと急激に変化している。したがって、トレンドエリアの現場で、ファッション業界に混じって、自らが・商品企画・デザイン・仕掛けのセンスを養い、かつそれを現場で実践するための拠点が必要である。

<実行内容>
1:「二輪車・若者向け商品の複合販売店舗」の立ち上げ
2:店舗内に研究所サテライトオフィスを併設
3:店舗面積・立地等を含め最適な経費設定の検討
4:労務、出納、税法、設備資材、OA等、最適プランの検討
5:上記具現化に向けた、アクションプラン策定とその実行

この時点で、もう大問題である。
<実行内容>の3、4、5あたりを見れば予想できると思うが、誰が資金を出して、誰が企画立案し、誰がその業務を遂行するのか?と、考えただけで空恐ろしくなる。
まず、原宿の、渋谷区神宮前6丁目の都内一等地の路面店を借りるとする。その賃料は間取りや場所にもよるが、例えば100平米(約30坪)もあれば月200万円は下らないだろう。契約の際に支払う保証金は8か月から10か月分が相場だ。20年前のレートはもう少し安かったとは思うが、要するに4ケタ万円は必要となるのである。

もうひとつ。Nプロにはそのポリシーとして、「自分たちで考え、自分たちで実行する」という基本条項があることはすでにご理解いただけていると思うが、要するにDo it yourselfである。これまた大問題だ。
ご存じのように本田技術研究所というのは分かりやすく言えば、そこで開発した商品の設計図を本田技研工業に買い上げてもらうことで運営されている会社である。定款でその業務内容が定められていると思うが、要は図面を売る以外のお仕事で商売などしてはいけないのである。

と、いうことは、ものすごくカンタンに言うと、物件の契約料や月々の賃貸料の支払い、そして店舗の施工費の支払い、商品の仕入れやその売買は、すべて物販に関わるものであるから、本田技術研究所とその社員では行えないことになる。極論すればNプロのメンバーがH FREEでできることは、企画を考えることと、そのために来店者と“お話しすること”だけとなる。
最初から自分を放棄したくなるような、エベレスト級の高いハードルが並んでいたわけである。大企業ならこういった案件は十分な予算を確保し、基本的に広告代理店に丸投げして「後はよろしく」とやるのが普通だ(だから、金額の割にはつまらないものしかできない)。ところが、お分かりのとおりNプロ案件だから関わったら最後、そんな極楽とんぼでいられるわけがない。

店名はHondaの「H」に「自由な発想=Free」を組み合わせたもの。その名のごとく、その発想と店舗の実現における一連の動きは、凄まじい自由とその対価である責任のワンセットであったのではないだろうか

「店を作れ」という凄まじいムチャ振り

この、絵に描いた餅の如く、当時のホンダにとっては荒唐無稽で実現不可能にも思えるH FREEに関する企画のリーダーに任命されたのは、この連載の第3章に登場した畑中眞人(はたなかまびと)である。

開店当時(上)と、この連載開始時の畑中(下)

〈経歴〉
1983年入社。1997年まで本田技術研究所でアジア機種担当〜アジア機種PL
1997年から本田技研工業国内二輪営業主幹として若者研究に携わる
2002年から本田技術研究所に戻り新価値研究ブロックの主任研究員として、NプロとH Free立ち上げを担当
その後、新コンセプト研究、機種戦略提案、市場分析などを担当し、2023年6月に退職

そもそも畑中はデザイナーとして入社したのだが、1980年代後半にタイ市場で劣勢だったホンダのプレゼンスを復活させるためのプロジェクトにおけるリサーチ業務を経験し、その実績を買われて1990年代は青山本社の国内二輪営業部に籍を置いて「若プロ(若者研究プロジェクト)」に参加していたのだ。
第3章で述べたように、畑中は渋原ブームの分析、FTR開発への関与、加えて渋原エリアのアパレル店員や美容師などを対象としたバイクモニター貸し出しなど、いろいろと仕掛けてきた。したがって、渋原エリアとその人々を熟知した人物ということになる。その後、研究所に帰任してこのH FREEや同じく中野の下で自転車のダウンヒルレーサー・RN01のプロジェクトなどに携わった、言わば「腹心の部下」でもあった。

「H FREEの立ち上げを命じられたのは2002年の10月ごろだった。オープン予定日が2003年のゴールデンウィーク直前なので、準備期間は半年あるかないか。そこから全部ゼロスタートでやれと言うのだから……」と、畑中。ムチャ振りの極地である。よく発狂しなかったものだと筆者は思う。そもそも、畑中はホンダのデザイナーであって、店舗デザイナーでもなければ内装業者でもないし建物屋でもない。それなのに「原宿」で店舗物件探しから始めなければいけなかったのだ。

「当然、(原宿は日本でも有数のショッピングエリアだから)条件のいい店舗が空いているとあっという間に次が決まってしまう。しかも、すぐに商売をしたいアパレルのような業種は即断・即決なので、稟議書に関係者のハンコをいくつも押すために日数が必要だなんていう、大企業のロジックは通用しない」(畑中)
しかも、理想とするような空き物件がそうそう都合良くあるわけでもない。それで、見つけたと思ったら「待ったなし」である。そうやって時間だけがどんどん過ぎていき、年が明けて2003年になっても、まだ物件は決まらなかった。さらに、話がまとまれば、スピーディーに多額の契約料も用意しないとならない。
「ようやくいい物件を見つけたら、『死んでもいいから絶対押さえろ!』という空気だった」と、いうわけで、畑中は死ぬ気になって立ち回り、関係部門のありがたいご理解や、お約束の「然るべきお方の激怒」を頂戴しながら、無事本契約に漕ぎ着けたのである。

実のところ、話はそれほど単純なものではない。こういった案件が進んでいった裏には、このプロジェクトを肯定的に捉えていたホンダ本社の意思があったことを忘れてはならないだろう──それが、前章の終盤で述べた二輪事業本部長の「そういえば耕ちゃん、このあいだやりたいことがあるって言っていたよね? あれ、すぐにやったらどうなの?」という言葉に結びつく。
この人物は池ノ谷保男である。池ノ谷はスクーター開発などを経てNSR250Rの初代開発責任者を務め、1995年浜松製作所二輪工場長、1996年熊本製作所所長、1998年HRC社長、2002年にホンダの常務取締役兼二輪事業本部本部長に就任。当時のホンダ二輪事業を司った文字どおりの大幹部であり、その隆盛を支えたひとりである(その後は中国本部副本部長などを歴任した)。
その大幹部が「Nプロもそろそろ(将来に向けた)仕込みを入れる時期じゃないの?」と言う意思を持って、中野のアンテナショップ構想を後押しした。さらにはホンダ全体の首領とも言える、当時の社長・福井威夫もこの新たな試みを肯定的に捉えており、そのことは後で述べる後日談でも明らかだ。

左:中野耕二と当時のホンダ社長である福井威夫。右:大幹部である池ノ谷保男(いずれの写真も開店時のもの)。まさにホンダの首領と大幹部と怪人である。彼らが中野の無謀とも思える挑戦をバックアップしたのは、それぞれに大きな成功と失敗の体験があり、困難な目標をブレークスルーしようとする新しい試みの重要性を、身をもって知っていたからに他ならない

血反吐が出るまで働きました

こうして店舗契約は成立した。それが2003年3月24日のことで、物件引き渡しは4月11日である。オープンは4月25日だから、正味2週間で内装の施工だけではなく、Nプロらしい「こだわりのお店作り」をしないといけない羽目になったのである。半地下の1階が店舗、地下がNプロの事務所、延床面積は240平米。もう、これだけで十分に「発狂案件」だ。
だが、しかし。畑中はこれと並行して多くのタスクをこなしていたのである。そもそも店舗を運営するためには物件の確保に加えて、当たり前だが最低でも以下のような案件を実行しないとならなかった。

1:そこで売る商品の企画と、その製造または仕入れ
2:販売員の確保(研究所の人間は金銭の出納に関われないため)。それも原宿というエリアでアパレルを売るという目的にマッチした人材であること
3:店内を演出する小道具や什器の調達

これらの案件を切り回すことになった畑中は、それまでの仕事のコネと知人のツテと未知なる領域への飛び込みと、知識と情報を総動員してのフル稼働だったと言う。当時の畑中は非組合員の中間管理職である。したがって労働時間の制約が緩いため、若いNプロメンバーがおうちに帰ったあとも馬車馬の如く働いたわけである。
幸いにして、それまでの経験によって渋原エリアには個人、企業問わず、いろいろな顔見知りができていたから、次々に話をつなげられたようだ。1の商品の企画と製造に関しては、よく知られるアパレル販売会社などで20年以上の経験を積んで退職していた人材を、本社雇いのショップディレクターとして契約。彼は父親の代からのホンダ好きだったことが参加のきっかけだった。また、アパレルグラフィックデザイナーも派遣契約で雇用した。

2の販売員に関しては、畑中のコネを活かしてファッションにこだわりを持った「イケてる」女の子と、そのお友達を確保し、派遣社員として本社で雇用することに成功した。
と、文字にすれば簡単だが、実際には何日もかけて実現したことであり、こういった段取りや交渉事、それも複数の案件を畑中は日々推進していたのである。
3の店内演出に関しては、Nプロ自体が 「妙なこだわり」を持った集団であるから、自分たちの発想とその具現化はお手の物である。ただしそれを形にする物理的作業には、それなりのスキルが必要だ。これに関しては面白い話がある。
イメージを喚起するための店内ディスプレイとして、当時残存していた大昔のバイクパーツ類を倉庫からほじくり返して並べることにしたのだが、「何しろ部番が昔のままだったので、お値段も昔のままだった(当時)」と、畑中は嬉しそうに語る。現在の旧車マニアが頭から血を吹き出して卒倒するような話である。

部品倉庫での発掘作業(左)と、店舗に持ち込んだその一部(右)。宝の山である

さて、ここまで来ればもう安心、という訳には行かないのが現実だ。写真はショップオープンに向けての作業を撮ったものだが、なんとオープン前々日の様子である。伽藍堂である。「本当に間に合うのかよ、おい?」という素晴らしい光景だ。

オープン当日の25日早朝になっても準備作業は続き、当然ながら研究所の一般社員は24時間働けないので、総責任者である中野も自ら作業を進めた。その姿こそは管理職の鏡である。
左:内装のカッティングを行う中野。オープン前日深夜から当日の早朝にかけて、お客様とかわいい部下たちのために環境を整えたのである。中:当日夕方には店舗スタッフと一緒にステッカーの袋詰めも行った。右:同じ頃、店内はこの状態。(当日午後3時=オープン4時間前)

こうして、とにかく可能な限りの総動員による全力運転で、どうにか4月25日午後7時のオープニングパーティーに間に合ったのだが、ここまでその中心となって働き続けた畑中は、ついにその頭からではなく身体から血を滲ませて卒倒してしまった。

「全部の作業が終わった時点で僕は倒れてしまった。何しろ、『血反吐が出るまで働く』ということがどういうことかを経験したくらい、追い詰められた日々だった……どうしてそこまでやれたのか? そりゃあ僕が中野さんの兵隊だったから(笑)。でもまあ、実のところH FREEに関する構想を実現できたら面白いと思っていたし、中野さんのためにも実現しようと思っていた」

やってみて分ったこと

開店したH FREEは、言ってみれば「バイクも置いてある」アパレル販売店である。そこには店員とは別にNプロメンバーの一部が常駐し、他のメンバーもローテーションでやってきた。店内には顧客の要望をすぐにカタチにするとともに、実際のカタチ=バイクを交えて顧客にダイレクトで提案をかけるための「ミーティング・スペースやスタジオを設ける」ということで、地下にはNプロのスタジオ(サテライトオフィス)を構えていた。

開店直後の店内(上)と、地下のNプロ サテライトオフィス(下)

H FREEは開発者自らが、「若者トレンドの現場へ飛び込み、売り手・買い手の環境の中で真剣に考え、買ってもらえる価値をひねりだす場」であった。これに関して、前出の研究レポート※2において中野はこう言っている。

「三現主義とか自他非分離という言葉があること自体,それを行うことがいかに難しいかを示していると思う。例えば普段、『どっか行って(現場を)見てこい』と言っても,いろいろな仕事があって忙しい状況だからできっこない。土日に見に行けば良いよと言っても,家庭の事情や経済的な事情だってある。それで,年に2回とか3回行ったからって,三現主義をやりましたと言えるのか? そういうことができる環境,場をつくってあげないと三現主義は実現しない。自他非分離だってキャッチコピーじゃなく,実際にやってなんぼだが,それがなかなかできない。だから自他非分離という言葉を意識して使わなくても自然に実行できるような場をつくりたかった」
(引用終わり)

まとめるとH FREEとは、こういう場であった。
●実践を通じて、売れるモノ・コトを考える
 ⇒お金を払っていただく価値を肌で感じて、より真摯な思考と取り組みを醸成する
●若者が興味を持つバイク以外の商品もセレクトする
 ⇒対象となるお客様が入りやすい環境とする
●対話が涌き出る、興味あふれる環境づくりや情報発信を行う
 ⇒目的とするバイク関連情報を聞き取りやすい環境を作る
●Nプロスタッフ自らが常駐し自他非分離を実践
 ⇒開発者自身がダイレクトにトレンドを体得する

用意された商品は、ホンダのロゴやウイングマークをモチーフにした「NEW LINE」と、1970〜1980年代の復刻版も含めホンダの歴史を感じさせる「HISTORY LINE」というオリジナルのウェアを中心に、帽子やマフラー、バッグ、オリジナルステッカーといった小物類。また、二輪車の販売はホンダドリーム世田谷(当時)の窓口を設け、バイク以外にも推奨するカスタマイズ用パーツなども取り扱う。
店舗のディレクターは、過去のインタビューでこう言っている。
「オープン当初はバイクマニアにしか買ってもらえないのではないかという危惧もあり、ホンダという企業名をあまりオモテに出さないデザインの商品を中心に展開していた。しかし、フタを開けてみると、ロゴ入りのTシャツなどホンダらしい商品のほうが人気となり、もともと製造ロット数が少ないのであっという間に売り切れてしまった」
「こういう外観なので、入店して初めてバイク関連のショップだと気づく方も少なくない。中には普通免許で原付に乗れることを知らないなど、バイクに関する知識がない若い子もいる(笑)。でも、そういう今の若者たちの普通の感覚を肌で感じることが、アンテナショップの最も大切なポイントだ」
また、ウイングマークの使用形態に関しても、「以降のCIにおけるアパレルへの適用ガイドラインを整備することになった」(畑中)という。

もちろん、肝心のバイクも用意した。現行モデルをベースにした研究所のデザイン室やNプロ制作による検討用モデルも並べ、来店者による意見や評価を知ることで、研究所の中では得られない情報を収集したのである。
その当時、店内に展示してあるBiteについて畑中はこう語っている。

「ここに置いたNプロモデルのうち、Biteには当初お客様があまり寄りつかなかった。そこで、車体にちょっとだけフラワー・マーキングをしてみたら、女の子が“これ、可愛い!”って集まって来るようになった。さらに、これまでは新聞配達とか出前のバイクみたいでダサイって思っていたハンドル・カバーに、同じマーキングを施して装着してみたら、やっぱり人が集まってくる。ほんのちょっとした工夫で、お客様とっての商品の意味が変わることを目の当たりにして、目から鱗が落ちた。そんな驚きがここにはいっぱいある」

その中で着目したものについては,すぐにカタチにしてフィードバックした。新しいアイデアを模索し早期に確証を得て、新価値モデルをアウトプットすることも目的のひとつだった。

スタートから順調だった

H FREEは盛況だった。
最終的には約4年間で述べ15万人の集客を実現した。この数字は通常のアパレル販売店であったら過小なものかもしれないが、「原宿」で「ホンダ」が「いきなり始めた」にしては驚いてもいい数字ではないだろうか?
当時、原宿にアンテナショップを出店していた競合メーカーの関係者がH FREEを観に来て「ウチもこういうことをやらないとダメだ」と感心し、社内でそれをぶち上げたところ「じゃあ、君がやりなさい」と配置換えになったというのはまた別の話である。何しろH FREEでは過去からのイメージ財産に加え、女性ファッション誌などにモデルを使った広告まで打ったのだから、もう気合いが違うわけである。

来店者に対して説明やリサーチを行うNプロメンバーの図。お互いにとって未知の領域を補完するような、特異で創造的なコミュニケーションの場となった

そういうわけで、H FREEがそれなりに予算を使ったのも、また事実だろう。そして、直接的な費用対効果という意味では、その会計報告などは見たくもないレベルの赤字であったことは想像に難くない(そもそも一般的にアパレル販売は、売価に対し原価が40〜50%と利幅はそれほど大きくはない)。
おまけに新商品提案と言っても、二輪は今日の明日で商品化できるものではないから、使った予算を短期間で穴埋めすることもままならない。当然ながら商業的見地に立って見れば大問題の案件である。案の定、社内のそういう方面から「H FREEは金ばっかり使ってモノにならない」という、存続を否定する意見が出てきたのである。
それに対し福井社長は「それは、彼らの提案を舞台に上げない(=モノにならないのは)お前らのせいだろ」と、一蹴したと言う。「それを聞いて、僕は涙を流した」と畑中。もう、こうなるとものづくりの物語ではなく、男と男の魂の物語である(福井社長はレース現場で散々苦労してきただけあって、チャレンジすることに対して非常に肯定的だったと筆者は思う)。

だが、運命とは時に数奇であり、非情なものだ。
さあ、これからだという時に、H FREEどころかNプロ自体の存在意義を根底から揺るがす、歴史的大事件が起こったのだ。それは2006年6月から施行された改正道路交通法により、二輪車も駐車取り締まりの対象になったことである。
もっとも、それ以前から駐輪インフラのない原宿ではおびただしいバイクが路上駐輪され、近隣住民との間に生じた摩擦によって、このエリアの違法駐輪の撤去は2005年から強化されており、渋原エリアのバイクの数は徐々に減少していた。さらにこれに追い打ちをかける2006年6月の国家的統制によって、国内二輪マーケットは突然、空から隕石が落ちてきたレベルの壊滅的打撃を被る、いや壊滅したと言ってもいい。

チャレンジの光と陰、その顛末

その日以降、渋原エリアからバイクが消えた。本当に消えたのだ。
「捕まるのがイヤだから、バイクで通勤できない」
「通勤できないから、もうバイクには乗らない」
「バイクには乗れないから、免許は取らない」
こういったサイクルがものすごいスピードで回り始め、原宿でも路上や歩道からバイクが一斉に消えて、閑古鳥が鳴くまでは一瞬だった。特にそのドアtoドアの手軽さを理由に、原付から250ccまでのモデルが若者の通勤や普段使いの中心であったから、そのセグメントをターゲットにしたNプロはひとたまりもなかった。

この改正道路交通法以前から強化されていた駐輪取り締まりも背景のひとつとなって、2006年3月にNプロは発展的解散となり、その人材の一部とH FREEの運営は新設された「新価値研究ブロック」に引き継がれた(その辺りの流れと詳細は今後の章で解説する)。
そこから、1年ほど市場やエリアの動向をうかがいながらH FREEは運営されていったが、原宿からバイクが消えるという出来事が、結果的に原宿の街自体を若者から大人のエリアに変容させてしまったのである。このため、H FREEの存続意義もなくなってしまったのだ。

2007年2月、おおよそ4年間の活動を経てH FREEは、それ以前にアパレル関係のコラボレーションでホンダと繋がりのあったファッションブランド、SHINICHIRO ARAKAWAによってその運営が引き継がれ、「SHINICHIRO ARAKAWA H FREE」としてリニューアル、再スタートした。

改正道路交通法施行前(左)と施行後(右)の表参道。違法駐輪がそもそもの原因だとは分かってはいるものの、この光景は悪夢以外の何物でもなかった
原宿における定点観測の結果。駐輪取締が強化された2005年から駐輪台数も走行台数も下降しているが、2006年6月に止めを刺されたのは明らかだ
SHINICHIRO ARAKAWAは、1990年代にパリコレ参加デザイナーとして有名になった荒川眞一郎のブランド。荒川本人もバイクに乗ることから、そもそもは畑中がバイクモニターを探していた時に知己を得たという

H FREEの成果は以下のようなものになる。
●若者とバイクとファッションを融合させた、ライフスタイル提案型の店舗はホンダの斬新な取り組みとして人気となり、研究所の調査拠点として集客・属性ともに良好な環境となった
●Nプロモデルの熟成調査、第6弾モデルの模索調査、モデルチェンジ及びマイナーモデルチェンジモデルの検証、ホンダ広報部のPR材料など多岐にわたる活用
●原宿の若者カルチャーにおけるホンダのプレゼンス向上を果たした

こうしてH FREEは惜しまれながら……となるのが通常のパターンだが、ここでもただでは終わらせないのがNプロだ。畑中たちはH FREEの調査ノウハウを海外に持っていったのである。当時、すでに空前のバイクブームを迎えようとしていたタイ市場での、渋原系の人種に当てはまるトレンドセッター達へのリサーチだ。

「Nプロで考えた試作車をタイに持ち込み、現地のオシャレさん達に見せ、それまでタイカブ系のアンダーボーンモデルを主流としていた彼らの固定観念を変えることに成功した」(畑中)

そして現在、日本でも人気の「原二レジャーモデル」の開発エンジニアをNプロは輩出することとなるのである。そう言うわけで、これで終わりかと言うと、そうは問屋が卸さないのである。

レポート●関谷守正 写真●ホンダ 編集●太田力也

第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子

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