目次
エイプ、ズーマー、バイト、ソロ、PS250、NP-6……
ホンダは2001年からの4年間、異色とも言える一連のモデルを開発した。
これがいわゆる「Nプロジェクト(以下、Nプロ)」である。
Nプロは、バイクファンやベテランよりも普通の「若者」をターゲットとし、そこへ新しい価値を持った商品を継続的に送り出すという目的を持ったチームで、主に若手の開発者で構成。
技術面においての革新的チャレンジは得意だが、商品パッケージとしては保守的なホンダの中で、Nプロは異形であり異端であり、あるいは掟破りの内容だった。
この連載は、そんなNプロのメンバーたちによる破天荒なバイクづくりの物語であり、まったく新しいバイクを創出するための 「心の在り方」を考える少し大人のストーリーである。
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子
私は、自分を見放さず、自分の判断や、自分の覚悟で、
最善を尽くす男として生きたいと思うのだ
バイクに興味ない人を振り向かせたい

Nプロ第4弾は、2003年3月にリリースされたSoloである。このモデルは、それまでのApe、ZOOMER、Biteの3モデルが、Nプロ発足の前段にあった「若プロ(若者プロジェクト)」から誕生したのに対して、それらとは少々違うところから生まれたことは、ほとんど知られていない──。3モデルが自由奔放な姿であったのに対して、Soloはそれらとは異なりエレガントだが機能的にはコンサバティブな内容であったことは、そもそもの出自の違いを物語っているかもしれない。
したがって今回は、そのコンセプトやスタイリングが生まれてきた経緯も少し詳しく説明したい。Soloのルーツは、Nプロや若プロの影も形もなかった1991年頃、ある若いデザイナーが「エピソード」と名付けたスタディモデルである。1980年前後までは国内市場にレジャーバイクが多くラインナップされており、それらをカスタマイズして使うユーザーも少なくなかった。そんな時代に多感な少年時代を過ごしたそのデザイナーは、バイクの楽しさを自ら表現したいとホンダに入ったのだった。
「1980年代中盤ごろからはレーサーレプリカが中心の時代になり、以前のようにレジャー系モデルがなくなっていたことがモデル提案の動機だった。自転車のように気軽に乗れて、バイクのように深く愛せるものでありたいという気持ちを込めた。前カゴは『生活の中で使って楽しい道具』ということを象徴している。想いとしては、バイクに対して興味のアンテナを立てていない人を振り向かせたかった」
結果的にSoloのデザイナーを務めることになった当の本人、久米泰生は動機をそう語る。制作はクレイモデルまで進められたが、組織としてのコンセンサス(合意)を得られていなかったため、「なにアナーキーなことやってんのキミ?」というワケでマネージャーの怒りとともに即座にお蔵入り。久米はその後、朝霞研究所(本田技術研究所)のデザイン部門からホンダ本社(本田技研工業)のデザインビジネスプロジェクトに転籍となり、二輪以外のデザインに携わることになる。




写真は、デザインスタディ「エピソード」のクレイモデルと、その後に久米が本社のデザインビジネスプロジェクトで携わった事例(ヒューマノイドロボットP3、ホンダコレクションホール建屋原案、SHOWAロゴ)。本社のデザインプロジェクトではさまざまな依頼を受け、「顧客のニーズに沿った二輪以外のデザインに携わる貴重な経験を積めた」と久米。
「お客様の逆襲」:渋原31連発
その想いをさらに進められたのは、1998年に本社から再び朝霞研究所に戻り、商品企画に配属されたことがきっかけだった。そこでは、デザイン部門で推進する「若プロ」と並行して、商品企画部門による「若者研究」が行われていたからである。これによって、久米のアイデアは、おおよそ10年目にして再び検討されることになった。
Nプロの前段の「若プロ」では、渋・原(渋谷〜原宿)でのフィールドワーク(実地調査)の結果がモデル開発の動機や大きな裏支えになっていたと前章まででも述べてきたが、商品企画部門での「若者研究」を統括するのも、当時上席研究員となっていた、あの中野耕二だったのだ(第二章参照)。

話を戻すと、1990年代初頭、「エピソード」を着想したころの久米は渋谷に住んでいた。
「当時ストリート系という言葉はまだなく、渋谷や原宿の街角では時折SRやスティードを見かけるくらいで、バイクの存在感は薄かった。そのころ会社が猛烈に推進していたフルカウルスポーツ群と、街の若者達の生活感がどうにも結びつかないことが提案の発端だったが、その後本社勤務を経て朝霞研究所に戻ったら、それは『ホンダ二輪と若者の乖離』として、ある意味事業上の課題にまでなっていたことに驚いた。商品企画部門での『若者研究』は、まさにかつての自分の生活環境そのものが研究対象。二輪を離れていた10年近いブランクのアップデートが必要だと感じた」(久米)
久米を含むメンバーで行っていた商品企画での「若者研究」は、フィールドワークの結果を持って、若者の行動と消費の傾向に当てはまる商品イメージを提案した。それが「お客様の逆襲」というレポートである。そこでは渋・原系の若者におけるバイクの指向性を6つのテーマに分け、合計31のモデルが提案されていた。これを「渋・原31連発」と呼ぶ。
渋・原31連発の提案は中野の関心を引き、さらに「若者研究」のメンバーがその企画を絞り込んだ上で、「カブな気分のオートバイ」が商品化されることにつながったのである。



振り向いてもらうための「カブな気分」
スケッチを見れば一目瞭然だが、この「カブな気分のオートバイ」がSoloの直接の原型であり、当然ながらこれを発案したのは久米である。そもそもは、何かの会議中にイメージが思い浮かんでノートに描いた落書きである。この時点でそんな意識はなかったかもしれないが、それを見ればやはり10年来の夢の実現ということになるだろう。
この「カブな気分のオートバイ」がNプロに採用されたことで、少し間を置いて久米はNプロへ参画することになる。その採用面接の際に中野からは「Nプロのデザインには立石っていうすげぇ人材がいるんだけど、それでもやるの?」と、さりげなく脅されたと言う。久米にしてみれば、来てほしいのか、ほしくないのか、どっちなんだという気分だろうが、それはともかくとして、問題はその姿・佇まいである。
「Soloは『可憐』とか『シンプル』とか、慎ましく見えるようにしたかった。ただし、小さいのに存在感があるモンキーも同じことだろうが、個性ある車体シルエットが違いや存在感を生むと思っていたし、その車体構成に自由度のある原付だからこそ可能な形がある──。簡単な構成、スポーツバイクとは違って乗る人が際立つシルエット、そして見たときに『ん? 何?』と思ってもらえるような形、そんなスタイルにしたかった。街角に溶け込みながらも、乗っている人を引き立てるもの。これまでバイクに振り向かなかった人に、振り向いてもらいたいという想い自体は『エピソード』の頃から変わっていない」(久米)



何しろフツーにファッションに気を使う若者に乗ってもらおうというのだから、SoloのスタイリングはそれまでのNプロ・3モデルとちょっと毛色が違う。その当時、多くのバイクが当たり前のように漂わせていた、力強さとか、勢いとか、過剰なまでの「オラオラ感」に依存しないものである。
主役はあくまでもSoloに乗るオーナーであり、Soloはオーナーの生活を構成するエレメントとなる「ツール」であったと言ってもいいだろう。そこで必要なのは、繊細さであり、上品さである。当時のおしゃれな人たちはバイクに対する関心度がまだまだ低かったので、少なくとも男性らしさというか、ともすればワイルドになりがちな雰囲気を感じさせない「エレガント」なスタイルであることが重要だった。
「例えば、昔からスーパーカブのシンプルさや気軽さは好きだったが、例えばそれを狩猟用途に特化させたハンターカブなどは、質実剛健でありながらどこかチャーミングさも兼ね備えていたと思う。そういった特徴は、ライダーやバイカー以前に、人を振り向かせるきっかけになり得ると思ったし、排気量や速さといった尺度で測られるような、既存のバイクのヒエラルキーとは関係なく、彼らの豊かな日常生活を妨げないような商品を作りたかった」(久米)
モーターサイクルよりも気軽な「カブな気分のオートバイ」であるから、エンジンなどはスーパーカブから流用できるわけで、開発期間もある程度セーブでき、きっとコストも抑えられるだろう。
「車体はシンプルな構成で、要するに(構成部品が)全部見えてしまうようなものだったから、中野さんから『デリカシーがないね』と瞬殺されてはムキになってディテールのスケッチを描いたし、開発中にも完成後のポスターやカタログのイメージを考えながら作業した」(久米)


掟破りの企画、掟破りの新設計
SoloのLPL(開発責任者)を担当した中井 慎は、東南アジア向けモデルの車体設計をしていた人物だったが、「自分の手掛けたバイクが日本国内を走っているところを見たかった」といった動機で、Nプロに参加した。中井も久米もNプロ立ち上げ時のメンバーではなく、その後に参加したメンバーである(中井はBiteが開発されている頃に参加し、久米の参加はその後だ)。
「それまでと違っていたのは、商品企画側で作られた先行車の現物を街に持っていったことだろう。そこで、市場の反応を確認しながらコンセプトが決定された感じだ。したがって、そのような経緯を知らずに、ある日いきなり第4弾として開発するモノを見せられたという部分で、当初はNプロ内でもSoloの位置づけや意義を理解できなかったメンバーもいたと思う」(中井)
それまで「一緒に考えて、より良いものを作ろう」という空気だった開発現場に、いきなり空から隕石が降ってきたという訳である。実際、第4弾としてSoloをねじ込んだのはマネージメント側のゴリ押しと言ってもよかった。
「この第4弾はすでにコンセプトも考えられていたわけだから、大枠の話を聞いた後で何かをやっても、後付け感があるだろうし、違う方向にも振りづらい。最初からの古参メンバーは特にそう感じたのかもしれない。一方、自分も含めて後から入ったメンバーは逆に、何かできるのではないかと思っていたので、『これが良いね』という意見に傾いていった」(中井)
つまり最初は賛否両論。若プロ提案の3モデルが終わって、「さあ、第4段は俺たちがゼロから作るぞ」というタイミングでSoloが(少し遅れて発案者本人までが)登場したというわけだから、間の悪さと言ったらありゃしない。「当初は針の筵という瞬間もあった」と久米は言う。もしかしたら、中野の「それでもやるの?」というのは、そういうことを見越した発言だったのか? 本人に聞いてみたい。
もっとも、一般的な開発では商品企画が新モデルの構想を立案し、それを受け取った開発チームが形にするわけだから、第3弾までの先行車を含めても特段おかしなことをしていたわけではない。が、Nプロ自身が目標として「市場性を自ら検証した商品企画の実施」を掲げていたこともあり、プロセスの共有を大切にしてきた彼らとしてはそのあたりにギャップがあったというわけである。
しかしそれよりも、元々は若者の価値観研究のつもりで考えていたモデルだから、既存のフレームの流用では成り立たないものだった。開発としてはこっちのほうが問題だ。
「エンジンはスーパーカブそのままだから、マグナ50とかプレスバックボーンのCD50、東南アジア向けのモデルなど、カブ系の骨格を検討したが、なかなかしっくりくる骨格がなかった。そもそも、スーパーカブは人気だったが、当時はまだ商用車っぽい敷居の高さがあったので、もう少しパーソナルユース固有の打ち出しが欲しかったし、しっかりした存在感も求めて前後18インチを採用したり、各パーツに意味を持たせてレイアウトしたりしていった」(中井)
「結局、Soloはメインフレームから新規で起こしたが、これはNプロとしては初めてのことだった。タイヤサイズもそれまで小径で来たのが、初めてフルサイズになった。燃料タンクも使える物はないかと、コレクションホールや旧車イベントに出向いて探したけれど、こちらも思うような物がなく、新規とした」(中井)
これは、当時の熊本製作所にしても、ひさびさに手掛ける原付モデルのニューフレームになった。

▲久米 泰生
本田技研工業株式会社
二輪事業統括部 営業部
マーケティング企画課 マーケティングコミュニケーション 二輪技術広報
アシスタントチーフエンジニア
<経歴>
1986年 本田技術研究所朝霞研究所に入社 第六設計ブロック配属(現デザイン開発室)
1992年 本田技研工業ビジネス開発室B&Dデザイン 二輪以外のデザイン
2002年 Nプロジェクト参加 Solo、PS250、NP-6、H-FREE常駐
2006年 本田技術研究所朝霞研究所~本田技研工業 二輪技術広報
▲中井 慎
本田技研工業株式会社
二輪・PP開発生産統括部 ものづくり企画・開発部
戦略企画・運営管理課
チーフエンジニア
<経歴>
1991年 本田技術研究所朝霞研究所に入社 第二設計ブロック配属(車体設計)
2001年 Nプロジェクト参加 Bite、Solo、PS250
2003年 第二設計ブロック帰任 主にインド機種開発に携わる
2007年 Honda R&D(India) Pvt. Ltd.を経て主にアフリカ、インド機種LPL
2014年 Honda R&D Brazil(MANAUS)を経て主にブラジル機種 LPL
2019年 本田技研工業株式会社 戦略企画・運営管理課
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない
フレームを新設計すればコストがかさむのは当然である。しかも燃料タンクもスイングアームもリヤフェンダーも新規であるし、「素材感を大切にしたかった」ので、ボディカラーも新色とした。こうなると、「イカしたバイクをお求めやすいお値段で」というのがNプロのお約束だったから、これも掟破りである。しかし、当初はちゃんと価格を抑えられる目論みがあったのだ。
「スーパーカブと同じエンジンを使っているのだから、それなりに安く作れるだろうと思っていた。ところが、例えばエンジンの仕様を少しでも変えると、とんでもない値段になることが判明した。とにかく、カブの部品はちょっと触るとえらいことになる。『カブコスト』という聖域の地雷を踏んだ形だ」(中井)
要は、スーパーカブは長い年月をかけて、ものすごい台数を売ってきたからこそ、部品などのコストが格段にこなれていたことを甘く見ていたのだ。どうやら、当時は中野を始めとするマネージメント陣もその具体的なレベル感が分かっていなかったようである(蛇足だが、当時のホンダがおいそれとカブを改変できなかった理由のひとつがそこにもあった)。
「結局、具現化に向けては常にコストで苦労した。こだわった専用設計は価格に直接響くのはわかっていたが、大元のコンセプトからくる目標値など、譲れないところがあった。低中速に振った走りもそうだった。値段のために中途半端な仕様にはしたくなかった。どうにか安く作るためのアプローチを考えたものの、当初描いた価格イメージのレベルに収めることは不可能だった」(中井)
もともとシンプルな構成部品は再三にわたって検討が重ねられたが、価格は結局、19万9000円(スタンダード仕様)。営業部門ともコンセンサスをとっていたとはいえ、同じエンジンのスーパーカブは当時約16万円であった。大ヒットしたZOOMERなどは、結果的にちゃんと利幅を確保できたと聞く。それを考えるとSoloは開発中止の事業判断が下される可能性もあったように思えるのだが──この話のオチが面白い。
LPLの中井はコスト目標が達成できなかったから頭を丸坊主にし、Nプロのマネージャーである秋葉は営業に謝りに行くから坊主にしたという。久米はそれ以前に屋外で趣味の作業をするときに暑いからという理由で、たまたま坊主にしていた。こうして、都合3人の坊主頭が揃ってスーツを着て、販社であるHMJ(ホンダモーターサイクルジャパン)に「この度の件では……」と詫びに行ったのである。
「コンセプトなんて、実現できなければタダの絵空事だ」というのは、当時の秋葉が残した名言であり、開発者としての矜持である。
ともあれ、このような経緯でNプロ第4弾はカタチになった。
「Soloは、商品企画で作った先行車よりも、何と言うかもっと優しく安心感があって、ジェンダーフリーな雰囲気。両者の差が当初のギャップや技術課題を乗り越えたNプロの開発力、コンセプトの具現化に長けたメンバー達の実力だと、今見ても思う」(久米)


Soloが色狂いになった理由
もうひとつ、このお値段の騒動に関して紹介したい話がある。
何とか製造コストを収めるための経緯と顛末を社内報告した際に、それを聞いた当時の二輪事業本部長の反応には畏敬の念を覚えずにはいられない。当時のホンダにおける二輪づくりを躍進させた大幹部だ。
「何か今までにないものを入れろ。Nプロには新市場の開拓を、新規ユーザーの獲得を期待しているのだから、そこに向けた進化を示したらどうだ? それを考えた上で、もう一回報告しろ」
要するに、設計と製造と営業の調和が取れていないのなら、違うものでそれを補填せよ、ということだ。
「ひとつは、新規ユーザー獲得の可能性を示せということ。これは、試作車をお客様に見せて反応をうかがうことで、新規顧客からの支持を再確認した。もうひとつは、何がお客様のメリットになるのか再度整理して提案しろということだった。そこで、ユーザーを広げるためのひとつの方向性として、それまでより一層個々人をターゲットにしたカラーオーダーを提案した」(久米)
そして、その再報告で「Nプロは『モノ』だけではなく『コト』を起こしたい」と言ったところ、「すぐやれ」と本部長は即決したという。こうして、前例のないレベルのカラーオーダープランが誕生した。燃料タンクとフレームを基本に、フェンダーやシートにも異なったカラーリング、エンジンの表面仕上げ違いなどを用意し、285通りの色の組み合わせができるようにしたのだ。標準色はシルバー/レッド/オレンジの3色で、それ以外はオーダープランとなった。
「モデルを開発して出していくだけでは広がりがないと、役員は分かっていたのだと思う。カラーオーダープランも、バイク人口が減っていくのなら、ちゃんとお客様の希望に沿うような注文を取っていこうという試みだった。それまでやったことがないから工場も営業も相当大変だったはずだ。最初は組み合わせが2000通りくらいあったが、流石にそこまでは無理だった(笑)」(中井)
その再報告の場での「すぐにやれ」は、同席した中野にも向けられた。「そういえば耕ちゃん、このあいだやりたいことがあるって言ってたよね? あれ、すぐにやったらどうなの?」と、問うたという。中野の「やりたいこと」とは、若者とブランドの研究をさらに深めるためのある構想だった。それが、原宿にできたH-FREEなのだが、これは次章でお伝えしよう。
しかしどうだろう、この「ピンチと見ればさらに被せる」即断即決。開発チームの落としどころ、つまり下りてこようとする梯子に即座に火を放つという “絶対諦めさせてくれない”ホンダの原則がここにもあった。

Soloの首を絞めたもの
発売されたSoloはその年のグッドデザイン賞にもなったし、モニター車も用意され、そのエレガントなスタイリングに期待が集まった。集まったが、集まったはずだったが、思うように販売台数が伸びなかったのである。その理由は、それまでの「バイクは興味ある対象のひとつ」であるバイカーから対象を拡げて「バイクに興味のない人を振り向かせたい」へと一歩踏み出したこと自体ではないか? 20年後の今になって考えてみると、TVを買ってコンセントにつなぎスイッチ入れても、アンテナが立っていなければ、映像は映らないということではないだろうか。
関心や興味において感度の良いアンテナを立てている若者たちに、もっとバイクを受信してもらおうというのがNプロのそもそもであるから、それは良いとして、Soloに託した「これまで、バイクに関心のなかった人を振り向かせたい」という想いは、本来なら『こういうモノがありますよ、こういうコトができますよ』と、まずはその存在を対象に向けて十分に認知させる必要があったのではないか。そういう行為の代表は広告とか宣伝とかという活動になるが、そもそも渋・原の現場指向、すなわちニッチとも言えるプロジェクトとしては大々的なマス告知など視野の外である。
事実、せっかくの3速ロータリーミッションに対して「バイクを知らないお客様に説明したところ、『エンスト? クラッチって何?』と言われてしまうこともあった」(中井)。
もうひとつの悲劇は、発売後約1年半という、これもまた異例の短期間でSoloは絶版になってしまったのである。主たる理由は、その時期のホンダにおける二輪製造のフォーマットやシステム改変の影響であり、Soloは広く対象にその存在を届けきれずに送信停止となったわけである。
「発売後の調査では、どうやら狙ったお客様には合ってはいた。見落としは、彼らの『認知』が、常にアンテナを立てている『バイク関心層』の後から来ることで、『何かあるな』という意識の変化は時間をかけてだんだん広がっていくという点だったと思う。開発者としては、台数が足りないと言われたらその分は人間研究不足だったと受け止めるが、昔から色々なマーケティング理論はあっても、結局、人間が興味を持つに至るメカニズムは今も分かっていない」(久米)
そもそもSoloの場合、分からない領域だったから挑戦してしまったわけで、最初から分かっていたら挑戦にはならない。
絶版後2年経っても「Soloが欲しい」と販売店を訪れる若者(特に女性)が散見されたというのも、新しいカルチャーとしての認知には時間差があるということを物語っているのではないか。

美人薄命といったら持ち上げすぎかもしれないが、Soloが個性的で優雅であることは現在も変わらないように思える。中古車相場でも、安いもので20万円台半ば、低走行で程度が良いと40万円を超える場合もあるようだから、そのスタイルが一定数のユーザーに認知されているのは間違いないだろう。
そういった点で、もう少し販売期間が長ければ……と、少々残念に思えるのだが、それに対して、「やっぱり」と確信させるような事実がある。以前はベトナムで、20年も経つ現在でも中国で、Soloのコピー商品が堂々と出回っているのだ。他にはない個性、シンプルな構造、そして彼らのコピー商品の原形として最もメジャーなスーパーカブエンジンがベースとなれば、コピーしないほうがおかしい。
日本から遠く離れたところに、とんでもないアンテナが立っていたというわけである。これを喜ぶべきなのか、怒るべきなのか。あるいは悔しがるのか。ロマンチックなSoloの苦悩は今も続いているかのようだ。






レポート●関谷守正 写真●ホンダ 編集●太田力也
第1章:21世紀に出遅れたホンダ
第2章:中野耕二主任研究員というヤバイ渦巻
第3章:Nプロジェクトの胎動
第4章:小さな直立エンジンが見た夢──Ape
第5章:全部はぎ取ってみました──ZOOMER
第6章:もう引っ込みがつかない──Bite
第7章:ロマンチックな官能と苦悩──Solo
第8章:原宿でアパレル売ります──H FREE
第9章:Nプロで250ですが何か?──PS250
第10章:その可能性は未来へ向かった──NP-6
第11章:Nプロジェクトのその後、その遺伝子